に出てほっとした。
 黙々として真直に歩いた。後を振り向きもしなかった。
 周さんは家の戸を引き開け、俺がはいると、戸締りをしてしまった。俺を帰らせないつもりかも知れない。
 周さんは裏の方へ行った。手足を洗う水音がして、靴ではなく、下駄をつっかけて戻って来た。
「ああ、これですっかり済んだ。」
 独語のように言って、俺に軽く頭を下げた。
 炭火を盛んにおこし、濁酒を熱くして飲み、煙草をふかして、二人で顔を見合せたが、なんだか、夢から覚めたような白々しさで、そして胸うちに淋しい空虚があった。
「張さんも、君の好きなようにするがいいと、言いました。前から考えていたことです。」
 俺が何も尋ねないのに、周さんはそんなことを言った。
「そして、どうなの。」
「さっぱり、気が済みました。」
 あんながらくたな品物ばかりで……。そしてあんなことで……。
「アジアの憂鬱……。」
 口の中で言いかけて、俺はやめた。
 不思議なのは、確かに夢ではなかったが、出かけてからこれまで、千代乃の名前が一度も出なかったことである。それで、その名前を聞いて俺はぴくりとした。
「もう千代乃は出て来ません。わたしは完
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