状しますよ。千代乃も自身から進んで、その祕密をわたしに明かしました。」
 そこで、周は尾高に向って、元金返済の催促をし、延びるようならば、月五歩の利子を払って貰いたい、と談判した。
「親兄弟の間だって、金を貸せば利子を取ります。誰が無利子で金を貸す者がありますか。今時、月五歩の利子といえば、たいへん安いものです。わたしが尾高さんに月五歩の利子を請求するのが、どうして悪いことがありますか。正当な権利ではありませんか。」
 尾高もさすがに、千代乃から金を借りていないとは言わなかったが、利子の件はそっぽ向いて取り合わなかった。そしてそれからは、濁酒の極上品の仕入れ先はどこかと、しつっこく千代乃に尋ねかけた。だが、その仕入れ先こそ、周伍文の唯一の祕密だったのである。固より、自家で造っているものではなかった。
「誰にも言ってくれるな、よろしい、誰にも言わない、そういう約束です。男と男との約束です。信用の問題です。人間としての信義の問題です。日本のひとは、約束を破って、祕密をもらすことを、自慢にさえしているようですが、わたしどもは違います。一旦誓った約束ならば、たとえ女房に対しても守ります。わたしは千代乃に、どぶろくの仕入れ先を、決して明かしませんでしたよ。」
 その仕入れ先を、尾高がどうしてああまで知りたがったのか、理由ははっきりしない。つまりは、統制経済違反の確証を握って、周伍文を脅迫する意図だったとも見える。そして千代乃にしつっこく迫ったが、千代乃自身知らないこととて、何の手掛りも得られなかった。それを尾高は千代乃の強情のせいだと思ったらしく、悪どい手段に出た。詳しいことは分らないが、女中の言葉などを綜合してみると、尾高は周伍文の不在をねらい、子分を二人も連れてきて、卓子に短刀を突き立て、罵詈雑言や脅迫の限りをつくしたらしい。千代乃は恐らく逆上の態で、とっさに毒を呑んで逃げ出し、そして草原で死んだ。
「純情といいますか、判断力が乏しいといいますか、可哀そうです。」
 周さんは卓子に顔を伏せて、またも泣くのだった。
 だが、俺の頭には、千代乃さんの死がさほど深刻なものとは映らなかった。人おのおのの立場によるありふれたものとさえ思えた。何かのきっかけに依るもので、例えば、一足踏み外して階段から転げ落ちるようなものじゃないか。
 実のところ俺は、死というもの、自殺というものを、漠然と考えていたのだ。漸く探りあてた一筋の人の心の誠実さ、真心が、ごく些細なことのために壊れかけるのを、見てきた。それが壊れ去った後は、人は完全に孤独だ。その孤独の中では、自殺も無理なくしぜんに行なわれる。場所と方法も自由に選択出来る。ぎりぎりの切羽つまった、どうにもならないものではない。
 今日見た線路の輻輳地帯、いつもと違った道筋を取ったので初めて見たのだが、あすこでも、人はいつでも死ねる。一歩誤れば否応なく轟々たる車輌に轢かれる。だが、俺はあんなところで死にたくはない。だからぞっとして引っ返した。
 俺の頭にはいつとはなく津軽海峡が浮んでいた。特別の理由はなく、しぜんに浮んできたのである。交通が自由ならば朝鮮海峡でも差支えないが、それはだめ。そこで、津軽海峡の青函連絡船。いつでも誰でも乗られる。敗戦後の日本には思いがけない立派な船だ。航程約五時間余。食堂で思いきり食べ思いきり飲むんだ。それから船の甲板をぶらつく。勿論夜分のこと。秋の夜の冷い潮風に吹かれて船室外をぶらついてる者など、恐らくあるまい。ただ俺一人。海峡の中ほど、夜気は冴え、海は暗く、空も暗い。その空に星を仰ぐ、オリオンでもスバルでも何でもよい。いや、赤い北極星がよかろう。北極星を仰ぎ見て、そのとたん、舷側の欄干の間から身を躍らす。体は宙に流れて、意識はもう茫とかすみ、海面との衝撃が最後の火花となり、あとは黒闇々の虚無の底。
 船は航行を続ける。俺自身の一片だに後に残らない。だが、波浪のまにまに弄ばれる俺の体の、眼球の底の網膜には、北極星の映像が暫くは残るだろう。このオプトグラムが俺の最後の存在。
 自由意志による方法の選択と、決行後の確実不可避な結果、これこそ真の自殺と言うべきではないか。
 千代乃の場合、あるいは最後に星を仰ぎ見て、それが彼女のオプトグラムとなったかも知れないけれど、それはただ偶然のチャンスで、俺が理解する自殺の決意なんか、毒薬を嚥下する際にも果してあったであろうか。切羽つまった羽目なんてものは、人生にはありがちなもので、そして大した意味はない。
 周さんが泣くのを、俺はぼんやり見守るきりだった。
「日本人のうちで、ほんとうに心からわたしを愛してくれたのは、千代乃一人です。」
 一人あれば充分ではないか。二人も三人もと、慾張っちゃいけない。俺だって、たった一人を求めてきた。
 とは
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