顔色を窺うような気持ちだった。
周さんの相手の男は、もう五十年配の同国人で、俺も何度か顔を合せたことがある。その男へ、俺の知らない言葉で周さんはべらべら饒舌りたて、相手はなんども頷いた。
そこの、腰掛に落着き、卓子に片肱でもたれかかり、甘酢の鶏肉をさかなに、温い真白な濁酒をあおっていると、俺はもう口を利くのも懶くなった。
周さんは、その同国人へは俺の知らない言葉で、俺には俺の知ってる言葉で、こもごも話しかけた。それが却って遠慮ない態度に見えた。
「あんた、いいところへ来ました。もう、どぶろくも無くなりかけた。今晩、飲んでしまいましょうや。」
ばかなことを言ってる。無くなったら、新たに仕入れすればいいじゃないか。周さんももう酔ってるようだった。それでいて、濁酒のお燗なんか自分でしていた。
「つねちゃんは……。」
つねちゃんという若い女中がいたはずだ。
「暇をだしましたよ。今は、わたし一人きり。」
俺はあたりを見廻した。千代乃さんはどうしたんだろう。
「千代乃さんは、また出かけたの。」
「千代乃……もうわたし、諦めています。死んだ者は仕方ない。」
「死んだ者……。とぼけちゃいかんね。さっき僕は、そこで逢ったんだから。」
周さんは腰を浮かした。じっと俺の顔を眺めた。
「あんた、なにも知らないんですか。」
俺はへんな気持ちで、周さんの顔を窺った。
周さんは突然、すっかり立ち上って、俺の腕を捉えた。
「千代乃に逢った……ほんとに逢いましたか。」
「逢ったとも。あっちの、焼跡のところで……そして、一緒に、ここへ来たはずだが……。」
「たしかに千代乃ですか。」
間違いはなかった。言葉まで交わしたのだ。けれども、連れ立って歩いてきて、それから、後のことは、ぼーっとしていた。はぐれた、というより、彼女は消えてしまった感じだ。説明のしようがなかった。
周さんは俺の腕を離して、こんどは、同国人の腕を捉え、俺の知らない言葉でしきりと饒舌り、そしてふいに、卓上に顔を伏せて泣きだした。その肩を相手は軽く叩きながら、低い声でなにか言った。
やがて、周さんは涙の顔を挙げた。
「千代乃はあんたに好意を持っておりました。その話、ほんとうに違いありません。わたしも、あれから、千代乃に逢ったことあります。」
しんみりした空気になって、俺は事の次第を尋ねかねた。ただ酒を飲むより外はなかった。
掛時計が十一時を打つと、周さんの同国人は立ち上り、周さんと短い言葉を交わして、帰っていった。
「さあ、あらためて飲みましょう。今晩はつきあって下さいよ。それより、先ず、話を聞いて下さい。」
周さんはいろいろな料理を持ち出した。ありったけの御馳走と言ってもよかった。俺はもう食べられなかった。その代り、濁酒をたくさん飲んだ。周さんはよく食いよく飲んだ。酔っ払って、二人とも、話はしどろもどろだったが……。
千代乃はほんとに死んでいた。家から逃げ出すとたんに、追っかけられて捕っては危いと思いつめたものか、かねて所持していた毒薬を呑み下し、そして駆け出したが、あの焼跡のあたり、俺が彼女に逢ったあの辺で、もう毒が廻って苦悶し、雑草の中にぶっ倒れて、息が切れたのだ、と想像される。
早朝に発見されたその死体は、やがて解剖されたが、死因は毒薬以外には何もなかった。
「わたしが千代乃に逢ったのも、あの辺でした。」と周さんは言った。
「通りかかると、誰か、影のようにぼんやり立っている。それが千代乃です。一度は闇の中で、一度は霧の中でした。思いが残ったに違いありません。」
千代乃は周伍文によく尽してくれた。中国の戦争、次で太平洋の戦争、そのために周は東京での生活が次第に窮屈になり、横浜の知人の家に身をひそめたが、千代乃は横浜にまでついて来てくれた。料理屋の女中をしながら、陰に陽に周を庇護し、周も彼女を頼りにした。
「言ってみれば、千代乃のスカートの中に、着物の裾の中に、わたしは頭を突っ込んで、そしてそんな時、最も安らかに息が出来るのでした。」
戦後、東京の今の家に戻って来て、飲屋を始めてからも、千代乃は実によく働いてくれた。
ただ、お互に、一つずつ祕密が出来た。
当時の飲屋のことだから、ヤミの品物を扱うのは止むを得なかった。それから、第三国人は税金を免れることが出来た。それに眼をつけて、地廻りの男がよく飲みに来た。金を払う時よりも、払わない時の方が多かった。店の景気がよくなってくると、土地でも有力な尾高一家の者まで、ちょいちょい顔を見せるようになった。尾高自身も来た。その尾高の強請によって、千代乃は三万円の金を融通してやった。それが彼女の唯一の祕密だったのだ。
「女の祕密なんか、どうせばれるにきまっております。」と周さんは言った。「いや、ばれない前に、自分から白
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