に出てほっとした。
黙々として真直に歩いた。後を振り向きもしなかった。
周さんは家の戸を引き開け、俺がはいると、戸締りをしてしまった。俺を帰らせないつもりかも知れない。
周さんは裏の方へ行った。手足を洗う水音がして、靴ではなく、下駄をつっかけて戻って来た。
「ああ、これですっかり済んだ。」
独語のように言って、俺に軽く頭を下げた。
炭火を盛んにおこし、濁酒を熱くして飲み、煙草をふかして、二人で顔を見合せたが、なんだか、夢から覚めたような白々しさで、そして胸うちに淋しい空虚があった。
「張さんも、君の好きなようにするがいいと、言いました。前から考えていたことです。」
俺が何も尋ねないのに、周さんはそんなことを言った。
「そして、どうなの。」
「さっぱり、気が済みました。」
あんながらくたな品物ばかりで……。そしてあんなことで……。
「アジアの憂鬱……。」
口の中で言いかけて、俺はやめた。
不思議なのは、確かに夢ではなかったが、出かけてからこれまで、千代乃の名前が一度も出なかったことである。それで、その名前を聞いて俺はぴくりとした。
「もう千代乃は出て来ません。わたしは完全に一人きりです。」
地中に埋めたのは、アジアの憂鬱ではなく、千代乃だったのか。
周さんはまた饒舌りだした。
横浜に行って、一稼ぎするつもりである。それから、中国に一度帰りたい。紹興の近在に、伯父や伯母や兄弟が、たくさんいる。横浜にはまた戻って来る。その時は、紹興の本場物の老酒を、何十年も何百年もたった豊醇な老酒を、たくさんお土産に持ってこよう。そして酒好きな人たちに、ここへよく飲みに来た人たちに、贈物にしよう。みんな良い人ばかりだ。然し、街のボスたちはいけない。自分はもう千代乃についての怨みは忘れるつもりだが、それでも、ボスはいけない。日本にはもうこれからボスは少なくなるかも知れないが、その代り、ほかの嫌な奴が出て来るだろう。そんな奴が幅を利かせるだろう。日本は不思議なところだ。善良な人々と、邪悪な人々と、両極端に別れてるようだ。千代乃の淋しい葬式に対してだって、二通りの眼があった。憎悪や軽蔑の念で見る眼と、愛情や同情の念で見てくれる眼と、二通りの眼があった。その両方の眼を、自分ははっきり見て取った。日本は、どうしてそうなんだろう。中国には、無関心か関心かの二つしかない。日本に
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