漠然と考えていたのだ。漸く探りあてた一筋の人の心の誠実さ、真心が、ごく些細なことのために壊れかけるのを、見てきた。それが壊れ去った後は、人は完全に孤独だ。その孤独の中では、自殺も無理なくしぜんに行なわれる。場所と方法も自由に選択出来る。ぎりぎりの切羽つまった、どうにもならないものではない。
 今日見た線路の輻輳地帯、いつもと違った道筋を取ったので初めて見たのだが、あすこでも、人はいつでも死ねる。一歩誤れば否応なく轟々たる車輌に轢かれる。だが、俺はあんなところで死にたくはない。だからぞっとして引っ返した。
 俺の頭にはいつとはなく津軽海峡が浮んでいた。特別の理由はなく、しぜんに浮んできたのである。交通が自由ならば朝鮮海峡でも差支えないが、それはだめ。そこで、津軽海峡の青函連絡船。いつでも誰でも乗られる。敗戦後の日本には思いがけない立派な船だ。航程約五時間余。食堂で思いきり食べ思いきり飲むんだ。それから船の甲板をぶらつく。勿論夜分のこと。秋の夜の冷い潮風に吹かれて船室外をぶらついてる者など、恐らくあるまい。ただ俺一人。海峡の中ほど、夜気は冴え、海は暗く、空も暗い。その空に星を仰ぐ、オリオンでもスバルでも何でもよい。いや、赤い北極星がよかろう。北極星を仰ぎ見て、そのとたん、舷側の欄干の間から身を躍らす。体は宙に流れて、意識はもう茫とかすみ、海面との衝撃が最後の火花となり、あとは黒闇々の虚無の底。
 船は航行を続ける。俺自身の一片だに後に残らない。だが、波浪のまにまに弄ばれる俺の体の、眼球の底の網膜には、北極星の映像が暫くは残るだろう。このオプトグラムが俺の最後の存在。
 自由意志による方法の選択と、決行後の確実不可避な結果、これこそ真の自殺と言うべきではないか。
 千代乃の場合、あるいは最後に星を仰ぎ見て、それが彼女のオプトグラムとなったかも知れないけれど、それはただ偶然のチャンスで、俺が理解する自殺の決意なんか、毒薬を嚥下する際にも果してあったであろうか。切羽つまった羽目なんてものは、人生にはありがちなもので、そして大した意味はない。
 周さんが泣くのを、俺はぼんやり見守るきりだった。
「日本人のうちで、ほんとうに心からわたしを愛してくれたのは、千代乃一人です。」
 一人あれば充分ではないか。二人も三人もと、慾張っちゃいけない。俺だって、たった一人を求めてきた。
 とは
前へ 次へ
全12ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング