でなければ決して塩に手をつけない。もしこれが対談を以て為されるならば、時には口論をひき起し、争闘を招く恐れがないでもない。
 ところで、こういう風に述べると、如何にも現代のことのようであるが、右の話は実は、十五世紀の中葉、ヴェニスの航海者サ・ダ・モストが、旅行記のなかに書いてるものである。降っては、西暦一六二〇年にジョブソンが、一六七一年にムーエットが、一八五二年と一八七二年とにベランジェー・フェローが、同じような話をアフリカ西岸で聞き取っている。遙に溯っては、紀元前五世紀のギリシャの史家ヘロドトスが、既に書物の中に記述している。
 ヘロドトスに従えば、この暗黙の取引法を、カルタゴ人等はアフリカ西岸で用いていた。船を海岸につけると、商品を磯に並べ、それからまた船に戻って、狼烟をあげる。土人等はその相図を見て、海岸に走り出で、商品の側に適宜な黄金の量を置いて、奥に引込む。カルタゴの商人等は出かけてゆき、黄金の量が商品の価値に相応するものは、それを取って商品を残しておく。もし黄金の量が不足のものがあれば、それを共に残し、船に戻って、新たな提供を待つ。こんどはまた土人等が出てきて、欲する品に黄金の量を添加する。かくて相方満足するまでは、決して不義な行為はされない。
 事の真偽は保証の限りでないし、また立証の仕方もないわけであるが、然し、かかる暗黙の取引法が、果して実際に行われたとすれば、多少の手間はとれたろうとしても、如何にも円満に而も忠実に行われたろうということは、狡猾な現代人にも想像がつかないでもない。
      *
 右のような話を述べてゆけば、際限がないし、記録の調査も面倒になるから、転じて、世に知られていない秘事を一つ紹介しよう。
 印度の奥、ネパール地方のヒマラヤ山間の僻地に、洞窟内に祭られてる秘仏がある。人里離れた場所ではあるが、屡々若い男女の参詣者があり、往々、年老いた善男善女の参詣者まであって、鉄柵でふさがれてる洞窟の前に跪拝し、傍の小堂から守札を頂いてゆく。
 それが、仏にしては珍らしい、恋愛の守護者であり、而も結縁のそれではなくて、情熱のそれである。そして更に不思議なのは、洞窟内の仏体が、黒檀の箱に納めた二個のミイラである。
 伝説は言う。――
 古昔、この洞窟内に、一人の老僧が行い澄していた。数里距った村里に、天女にまごう処女がいた。或る日或る時、老僧はその処女を見た。爾来、煩悩の迷い逐えども去らず、老僧の魂は禽獣となって、遂にその娘を誘拐し、二人して洞窟内に蟄居した。
 昼となく夜となく、老僧は娘をかき口説いた。娘は頑として応じない。然しさすがは、カーマ・スートラを所有する印度のことだ。手荒な蛮行や、猥らな仕業は、微塵もない。その代りに、不可思議の情熱の生活が初った。
 二人は洞窟から一歩も外に出ない。勿論飲食さえもしない。娘は岩壁を背にして、身動きもせずに端坐している。老僧はその前に、足を組み腕を組んで、不動の祈願のうちに、じっと娘の姿を凝視している。煩悩即菩提の所業である。
 昼間は薄明、夜間は暗黒、月の夜は蒼白い微光がさす。そして巨巖に圧せられた静寂が、洞窟内に常住淀んでいる。娘は一言も口を利かない。既に抵抗力を失ったのか、或は一身をあげて承諾したのか。老僧の視線の前に一切を曝している。老僧ももはや、言語を絶した沈黙のうちにはいっている。娘を凝視するその眼から、一種の怪光が発散する。その怪光が、彼と彼女との肉体を繋ぎ、彼の魂から彼女の魂へと、じかに霊気が流れる。彼女の魂はそれを受け容れる。有を無に還元した怪しい時間が、純粋持続を以て経過する。
 かくて、幾日幾夜かを経た。老僧の両眼は次第に力を失って、その代りに、額の皺が次第に深まり、それが一の眼となって、他物は一切見ず、ひたすら女の方を見つめている。女はその眼に見入られながら、次第に生気を失い、蝋のような蒼白な不動に陥っている。そして見つめ見入られながら、二人は呼吸も次第に細ってゆく……。
 程へて、その洞窟内に、二つの死体が発見された。一つは、痩せ細った老僧の死体で、額に大きな眼のある三つ目の、骨と皮ばかりのものだった。も一つは、美しい娘の死体で、豊かな肉体がそのまま蝋化した、みごとなミイラだった。
 洞窟内のこの秘密は、二人以外の誰によって知られたのか、或は想像されたのか、そこのところは不明であるが、とにかく、二つの死体が発見されたのは事実で、それが鄭重に黒檀の箱に納められ、洞窟の中に安置され、更に鉄柵を以て俗縁を断たれて、秘仏として礼拝されているのである。
 この秘仏は、永劫不可見のものとなっている。それを、ヒマラヤから西蔵へかけて或る秘密探査に行った某君が、旅のつれづれのまま、ひそかに鉄柵を開き、黒檀の箱まで開いて、中を覗いてしまったのであ
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