「沈黙」の話
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)件《くだん》
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 寡黙の徳を讃えるのは、東洋道徳の一つであり、西洋道徳の一微分でもある。常にそうだとは云えないが、或る場合に於ては、寡言を金とすれば、饒舌は銅か鉄くらいのものだろうし、沈黙は金剛石ほどになるかも知れない。だからこれを逆に、或る場合に於ては、沈黙は無智であり、寡言は小智であり、饒舌は大智であると、モダーンな皮肉も云ってみたくなろうというものだ。
 沈黙が金剛石であるとすれば、その結晶的純粋さと硬度とを以て自己を磨くことが、至極の修練となるわけであろう。面壁三年の例は云うまでもなく、沈黙的修業が如何に仏道に周く採用されてるかは、人の知るところである。また、トラピスト其他の修道院で如何にそれが採用されてるかも、人の知るところである。
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 さて、道徳や宗教の方面のことを述べるには、叡智とか悟道とかいう困難な迷宮にふみこまなければならないから、暫く措くとして、普通に、沈黙は、後で大に言わんがための、或は最後の一言を言わんがための、或は唯一の真理を言わんがための、その前提として役立つ。
 関西方面の伝説に、「くだん」というものがある。百年に一度くらいしか生れないもので、その形は人頭牛身、ギリシャ神話のミノトールの丁度逆であって、また、ミノトール(牛頭人身)やサントール(人頭馬身)が兇猛な怪物であるに反し、「くだん」は一種の神性を帯びている。生れて三年間、飲まず食わず、殊に一言も言葉を発せず、神秘な生存を続けて、そしてその三年の終りに、世の変異を予言して死ぬ。形が人頭牛身であるところから、漢字に綴っては件《くだん》となし、未来に対する予言が必定なところから、世俗もこれにならって、証文などに「依如件」と書くのである。
「くだん」がもし始終饒舌っていたら、その予言の価値は認められずに終るだろう。が幸にも彼は、三年間の一生にただ一度口を利くのみである。それ故にこそ、予言は必定な真実となる。沈黙の効果も偉大なりと云わねばなるまい。
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 某君がひどく貧乏していた時のことであるが、貧乏は単なる外的現象として気にもかけず、美衣美食、派手な行動、なお方々に借金をこさえて、洒然泰然と納まり返っていたものである。そこへ、ぽつぽつ、借金支払の催促がくる。それを、某
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