もなれば、大地は泣きたいほどの豊満さにふくれ上り、いつ如何なる時でも、江戸川の水は流れ動いて、常に新らしい悠久さを失わない。
それらを観取するのは、詩人の眼であり、眼の映像を夾雑物なく鮮明に浮き出させるのは、詩人の表現である。――ここでは、心平さんはすっきりした詩人である。だから、「東京公園」の如き種類の幻想も、いやな臭気を立てないのだ。
四
心平さんにとっては、中華民国は第二の祖国とも言えるかも知れない。中国に対してただに親愛感を持ってるばかりでなく、実際に、広東の嶺南大学に学んでいる。なお後年、南京に長く定住し、そのほか、中国の各地を歩き廻った。
だから、中国の人事風物は、エキゾチックな感懐を心平さんに起させはしない。特殊な事柄だけが詩情を煽るのである。ここに採録した数篇を見てもそれは分る。
個々の作品について云々するのは止めよう。全体として、支那大陸の雰囲気が漂ってることと、表現が壮重になってることとを、指摘しておけば充分であろう。
五
ここには、壮麗な絵巻物が繰り拡げられる。
古代狩猟の景観は、銀壺の文様に制約されて、いささか窮屈な憾みなしとしない。
ところが、「牡丹圏」になると、突如、絢爛たる大舞台の幕が切って落され、咲き乱れてる牡丹の花を背景に、大猩猩が存分に舞い狂う。次の大舞台では、牡丹の花と天女の音楽のなかで人間と鬼との、奇怪な、滑稽な、実は真面目な出会。そして最後に、螺鈿の天の大満月。――表現は奔放自在、韻律を無視した語彙。まさに歌舞伎のそれである。
「鬼女」になると、同じく大舞台ではあるが、歌舞伎から能へと、引き緊った感じである。詩としての格調も整ってくる。
これらの絵巻物は何を示すか。心平さんの、覇気と冒険と能才とであろう。
六
海は天と照応する。
自然のうちで海こそは、心平さんが最も心惹かるるものであろう。心平さんが地の一隅を睥睨する時、その瞳には、地平を超えて、遙かに海が映らなかったであろうか。
海は流転きわまりなく、ことごとに色を変え、ことごとに相貌を変え、千古を通じて新らしく、永劫を通じて古く、非情のうちにすべてを呑みつくして、万鈞の重みに静まり返ってるのである。
その海が、心平さんの心眼の中にあって、そして心平さんは機会ある毎に、方々の個々の海を肉眼で見たがる。見
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