ール、スフィンクス、人魚、フォーヌ、サチール……。半人半獣の獣性から神性のことまでを想う。
 足許の紙片や糸屑は、益々不快な印象を私の眼に送る。私は崖地から足を返す。そして、人間の息吹のかかったものは凡て拾い出すように頼んでいるにも拘らず、それを不注意にも落葉と共に崖地に撒いた家人の無神経さに対して、私が苛立つのは、苛立つ方がいけないのであろうか。
 さはあれ、落葉の上を一人で歩くのは淋しく、二人で歩くのは楽しく、大勢で歩くのは喜ばしいだろう。自然の中にはいって汚れを知らない人間を、更に、自然の中にはいって汚れを知らない生活を、私は夢想する。

「東京から黒砂糖が駆逐されることを、僕は悲しく思う。僕の少年時代には、大抵の砂糖屋には、あのねっとりした黒砂糖があったものだ。それが、この頃では殆んど見当らない。文明の進度は、砂糖の消費量に比例する、或は白砂糖の消費量に比例する、と云われるけれど、黒砂糖を駆逐して白砂糖を使うところに、何の文明だ。僕はそういう文明人の味覚を軽蔑する。」――と、これは、さる食道楽者の言葉である。
 然し私に云わすれば、黒砂糖よりも寧ろ砂糖黍を何故讃美しないか、と反問したい。今日東京では、砂糖黍をしゃぶることは殆んど出来ない。時折、深川あたりの縁日の屋台店に、そのしなびたものを見かけるくらいである。それも、都会の児童は余り見向かない。
 味そのものの見地からすれば、黒砂糖は白砂糖にまさり、更に砂糖黍は黒砂糖にまさること数段である。砂糖黍の艶やかな皮をむいて、あの白い中身をしゃぶる甘味快味を、私は終生忘れないだろう。
 私は考える、天然の味にまさる味ありやと。ただに砂糖のみではない。
 田舎の児童は、野に遊びながら、時折、生のまま、大根をかじる、瓜をかじる、茄子をかじる、蓮をかじる。その彼等の、白い歯と健康な唾液と新鮮な味覚とを、私は夢想する。
 鯛や鮪や、其他、鮎から鰛に至るまで、多くの魚肉の味は、如何なる調理法を以てしても、生のものには及ばない。鶏肉も牛豚肉も、最上の味は、その刺身にある。牡蠣も鮑も、生に限る。臓物でさえ、動物はその生のものを最も喜ぶ。最も進歩していると云わるる支那料理に於ても、その珍味とされてるもの、熊掌、鼈裙、吟士蟆のたぐいは、天然の味を最も多く保有している。
 酒類も同様である。アブサントを好む者は、その天然的な芳醇さに惹
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