ながめた。彼は部屋じゅうにみなぎっているように思われる匂いについて、バグリオーニ教授の言ったことを思い出した。自分の呼吸には、毒気が含まれているに違いない。彼は身を慄《ふる》わした。――自分のからだを見て顫《ふる》えた。
やがて我れにかえって、彼は物珍らしそうに一匹の蜘蛛《くも》を眺め始めた。蜘蛛はその部屋の古風な蛇腹《じゃばら》から行きつ戻りつして、巧みに糸を織りまぜながら、いそがしそうに巣を作っていた。それは古い天井からいつもぶらりと下がるほどに強い活溌な蜘蛛であった。
ジョヴァンニはその昆虫に近寄って、深い長い息を吹きかけると、蜘蛛は急にその仕事をやめた。その巣は、この小さい職人のからだに起こっている戦慄のためにふるえた。ジョヴァンニは更にいっそう深く、いっそう長い息を吹きかけた。彼は心から湧いて来る毒どくしい感情に満たされた。彼は悪意でそんなことをしているのか、単に自棄《やけ》でそんなことをしているのか、自分にも分からなかった。蜘蛛はその脚を苦しそうに痙攣させた後、窓の先に死んでぶら下がった。
「呪われたか。おまえの息ひとつでこの昆虫が死ぬほどに、おまえは有毒になったのか」と、ジョヴァンニは小声で自分に言った。
その瞬間に、庭の方から豊かな優しい声がきこえてきた。
「ジョヴァンニ……。ジョヴァンニ……。もう約束の時間が過ぎているではありませんか。何をぐずぐずしているのです。早く降りていらっしゃい」
ジョヴァンニは再びつぶやいた。
「そうだ。おれの息で殺されない生き物はあの女だけだ。いっそ殺すことが出来ればいいのに……」
彼は駈け降りて、直ぐにベアトリーチェの輝かしい優しい眼の前に立った。
彼は憤怒《ふんぬ》と失望に熱狂して、ひと睨みで彼女を萎縮させてやろうと思いつめていたのであるが、さて彼女の実際の姿に接すると、すぐに振り切ってしまうにはあまりに強い魅力があった。彼はしばしば彼を宗教的冷静に導いたところの、彼女の美妙な慈悲ぶかい力を思い出した。純粋な清い泉がその底から透明の姿を、彼の心眼に明らかにうつし出したとき、彼女の胸から神聖な熱情のほとばしり出たことを思い出した。彼はすべてのこの醜《みにく》い秘密は、世俗的の錯覚に過ぎないことを考えた。いかなる悪霧が彼女の周囲に立ちこめているように思われても、実際のベアトリーチェは神聖な天使《エンジェル》で
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