「死ぬ」という言葉はこうしたことを意味するのです。
そのひとと同じ顔はもう二度と再びこの世に生れて来ることはないのです。決して、決して生れて来ることはないのであります。なるほど、鋳型《いがた》というものはあるでしょう。それを取っておけば、同じような輪廓《りんかく》をもち、同じような色彩《いろ》をした像を幾つとなく造ることは出来るでありましょう。しかしながら、あの体あの顔は、もう二度と再びこの地上に現われることはないのです。しかも人間は、幾千となく、幾百万となく、幾十億となく、いやそれよりももっともっと数多く生れて来るでありましょうが、新たに生れて来る女のなかには、そのひとはもう決して見出されないのです。有っていいでしょうか、そんなことが有っていいのでしょうか。かく思いかく考え来《きた》るならば、人間は気がへん「#「へん」に傍点」になって来るのでありましょう。
ところで、わたくしが愛していた女は、二十年のあいだこの世に生きていたのであります。ただそれだけでした。そして彼女は永久に消え去ってしまったのであります。永久に、永久に消え去ってしまったのであります。
彼女はさまざまなことを考えました。微笑みました。またわたくしを愛しました。しかしながら、ただそれだけでした。創造の世界にあっては、人間は、秋に死んでゆく蠅とすこしも変るところはないのです。ただそれだけのことなのであります。そこで、わたくしは考えたのであります。彼女の肉体、あのみずみずしていた、温ッたかな、あんなに柔かく、あんなに白くあんなに美しかった肉体が、地下に埋められた棺の底で腐ってゆくことを考えたのであります。肉体はこうして朽ち果ててしまう。しかして、その魂や思いはどこへ行ってしまうのでありましょうか。
(二度と再び彼女には会えないのだ。ああ二度と再び彼女には会えないのだ)
腐爛《ふらん》してゆく肉体のことが、わたくしの念頭につきまとって、どうしても離れません。たとえその肉体は腐っていても、在りし日の面影は認められるであろう。わたくしにはそんな気がいたしました。そして、わたくしは今一たび彼女の肉体を見ようと思ったのであります。
わたくしは鋤《すき》と提燈《ちょうちん》と槌《つち》をもって家を出ました。墓地の塀を乗りこえて、わたくしは彼女を埋めた墓穴を見つけました。穴はまだすっかり埋めつくされてはおりませんでした。わたくしは棺の上にかぶっている土をどけ、板を一枚外しました。と、厭なにおい、腐敗したものが発散する悪気がむうッとあがって来て、わたくしの顔を撫でました。ああ、彼女の床には菖蒲《しょうぶ》の香りが馥郁《ふくいく》と漂っていたのでありますが――。しかし、わたくしは棺を開けました。そして、火をともした提燈をそのなかにさし入れたのです。わたくしは彼女を見ました。その顔は青ざめて、ぶくぶくと膨れあがり、ぞッとするような怖ろしい形相をしておりました。また、黒いしる「#「しる」に傍点」のようなものが一条、その口から流れておりました。
しかし彼女でした、やッぱり彼女でした。わたくしは急に怖ろしくなりました。けれども、わたくしは腕を伸すと、その怖ろしい顔を自分のほうへ引き寄せようとして、彼女の髪の毛をぐッと掴んだのです。
ちょうどその時でした。わたくしは捕ってしまったのです。
わたくしは、その晩、夜一夜《よっぴて》、ちょうど愛の抱擁をした人間が女の体臭を大切にもっているように、その腐肉の悪臭、腐って行くわたくしの愛人の臭いを大切にまもっていたのでした。
わたくしが申しあげることは、これだけであります。なにとぞ、ご存分にわたくしをご処刑願います」
異様な沈黙が法廷を重くるしく圧《お》しつけているらしく、満廷、水をうったようにシーンと静まり返っている。群集はまだ何ものかを待っている容子《ようす》であった。やがて陪審員は合議をするために法廷を出て行った。
それから数分たって、陪審員が再び法廷に戻って来た時には、被告はいささかも悪びれる容子はなく、無念無想、もはや何事も考えてさえいないように見えた。
裁判長はやがて法廷の慣用語をつかって、陪審員が被告に無罪の判決を下したことを、彼に云い渡した。
しかし彼は身うごき一つしなかった。が、傍聴席からはどッと拍手が起った。
底本:「モオパッサン短篇集 初雪 他九篇」改造文庫、改造社出版
1937(昭和12)年10月15日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「貴方→あなた 或る→ある 或は→あるいは 謂わば→いわば (て)置→お 此→この 而して→しかして 暫く→しばらく (て)了→しま
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