て会ったという気がせず、この女をもう久しい以前から知っている、それまでにどこかで会ったことがある、――こう思われてならないのでした。彼女はその身うちに何かしらわたくしの精神と一脈相通じるものを有っていたのであります。
彼女は、わたくしの魂が放った「おう」と呼ぶ声に「おう」と応える声のように、わたくしの前に現れたのでした。人間がその一生を通じて希望というものに向けて放っている、あの漠とした不断の叫び、その声に「おう」と応える声のように、彼女はわたくしの前にその姿を現わしたのでした。
そしてこの女を更によく知りますと、彼女に会いたい、会いたいという思いだけが、一種名状しがたい、深い、云い知れぬ興奮で、わたくしの心を揺《ゆす》ぶるのでした。自分の掌《たなごころ》のなかに彼女の手を把《にぎ》り緊《し》めていると、わたくしのこの胸には、それまで想像だもしなかったほどの愉しい気持ちが漲《みなぎ》って来るのでした。彼女の微笑はまた、わたくしの眼のなかに狂的な悦びを注ぎ込み、わたくしに、雀躍《こおど》りをしたいような、そこらじゅうを無茶苦茶に馳けてみたいような、大地の上をごろごろ転げ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りたいような気持を起させるのでした。
こうして、彼女はわたくしの愛人になったのであります。いや、それ以上のものでありました。わたくしの生命そのものだったのであります。彼女を措《お》いて、わたくしにはもうこの世に何一つ期待するものはありませんでした。わたくしは何ものも、何ものも望まなかったのであります。わたくしにはもう、欲しいものは何ひとつ無かったのであります。
ところが、ある夕ぐれのことでした。私たちは連れ立って、河に沿うてすこし遠くまで散歩をいたしました。折あしく俄か雨にあいまして、彼女は風邪をひいてしまったのです。
翌日、肺炎を起しまして、それから一週間後には、彼女はもうこの世の人ではなくなってしまったのです。
断末魔の苦しみがつづいている間は、驚きと恐怖のあまり、わたくしにはもう何がなにやら解らなくなり、落ついて物を考えることなどは出来なかったのであります。彼女が死んでしまうと、劇《はげ》しい絶望のために、わたくしは茫然としてしまって、もう考えも何もなくなってしまいました。わたくしはただ泣くばかりでした。野辺の送りのさまざまな行事がとり行われている間は、わたくしの劇しい苦しみは、気でも狂うかと思われるほどでしたが、それは、いわば胸を抉《えぐ》られでもするような、肉体的な苦しみでありました。
やがて彼女の亡骸《なきがら》が墓穴に移され、その棺のうえに土がかけられてしまうと、わたくしの精神は、突如として、はッきり冴えて来たのであります。わたくしは怖ろしい精神的な苦しみを悉《つぶさ》に甞《な》めたのでありますが、その限りない苦しみを体験するにつけ、彼女がわたくしに与えてくれた愛情がますます貴重なものに思われて来るのでした。と、わたくしの心のなかには、
(もう二度と再び彼女には会えないのだ)
こういう考えが湧いて来て、どうしても離れません。そんなことを朝から晩まで考えていてごらんなさい。人間は気がへん[#「へん」に傍点]なってしまうでしょう。
考えてもみてください。いまここにあなたがたが身も心も打ち込んで愛している、かけがえのないただ一人のひとがいると致します。世間広しといえども、そのひとと同じような第二の人間などはあろうはずもないのであります。しかして、そのひとは身も心もそッくりあなたに捧げ、世間の人が「恋」と云っている、ああした神秘的な関係をあなたと結んでいるのです。そのひとの眼、愛情がそのなかで微笑《わら》っている、そのひとの凉しい眼は、あなたにとっては宇宙よりも広く感じられ、世界の何ものよりもあなたの心を惹くように思われるのです。つまり、そのひとはあなたを愛しているのです。そのひとがあなたに口をきく。と、その声はあなたに幸福の波を浴びせるのです。
ところで、そのひとが一朝にして消え失せてしまうのです。ああ、考えてもみて下さい。そのひとはただあなたの前から消え去るばかりではなく、永久にこの地上からその姿を消してしまうのです、つまり、死んでしまったのです。一口に死ぬと申しますが、この「死ぬ」という言葉の意味がお分りでしょうか? それはこう云うことなのです。そのひとは、もうどこを探してもいない。決していない。決して、決して、いなくなってしまったと云うことなのです。その眼はもう決して何んにも見ない、その口はもう決して物を云わないのです。数知れぬ人間の口から出る声のなかには同じような声音はあるとしても、そのひとの口は、もうかつてその声が語った言葉をただの一つをも、それと同じように語ることは決してないのです。
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