世界怪談名作集
幽霊
モーパッサン Guy De Maupassant
岡本綺堂訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一夕《いっせき》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)かさり[#「かさり」に傍点]
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 私たちは最近の訴訟事件から談話に枝が咲いて、差押えということについて話し合っていた。それはルー・ド・グレネルの古い別荘で、親しい人たちが一夕《いっせき》を語り明かした末のことで、来客は交るがわるにいろいろの話をして聞かせた。どの人の話もみな実録だというのである。
 そのうちに、ド・ラ・トール・サミュールの老侯爵が起《た》ちあがって、煖炉《だんろ》の枠によりかかった。侯爵は当年八十二歳の老人である。かれは少し慄《ふる》えるような声で、次の話を語り出した。

 わたしも眼《ま》のあたりに不思議なものを見たことがあります。それは私が一生涯の悪夢であったほどに不思議な事件で、今から振り返ると五十六年前の遠い昔のことですが、いまだにその怖ろしい夢に毎月おそわれているのです。そのことのあった日から、わたしは恐怖ということを深く刻みつけられてしまったのです。まったくその十分間は恐怖の餌《えさ》になって、その怖ろしさが絶えず私の心に残っているのです。不意に物音がきこえると、私は心からぞっとします。夕方の薄暗いときに何か怪しい物をみると、わたしは逃げ出したくなります。私は夜を恐れています。
 いや、私もこの年になるまでは、こんなことを口外しませんでしたが、今はもう一切をお話し申してもよろしいのです。八十二歳の老人が空想的の危険を恐れることはあっても、実際的の危険に再び遭遇することはありませんでした。奥さんたちもお聴きください。その事件は私がけっして話すことができないほどに、わたしの心を転倒させ、深い不可思議な不安を胸いっぱいに詰め込んでしまったのです。私はわれわれの悲哀や、われわれの恥かしい秘密や、われわれの人生の弱点や、どうも他人にむかって正直に告白することのできないものを、今まで心の奥底に秘めておきました。
 私はこれから何の修飾も加えずに、不思議の事件をただありのままに申し上げましょう。その真相はわたし自身にもなんとも説明のしようがない。まずその短時間のあいだ私が発狂したとでも言うよりほかはありますまい。しかし私
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