医者はそう云った。で、彼女は南フランスへ転地することになった。カンヌへ来て、彼女は久しぶりで太陽をふり仰いだ。海を眺め、オレンヂの花の香りを胸一ぱい吸った。
やがて春が廻って来た。彼女はまた北国へ帰って行った。
けれども、今はもう彼女は自分の病気が癒ることが怖《こわ》かった。ノルマンディーのながい冬が恐ろしかった。彼女は体の工合《ぐあい》がすこし快くなって来ると、夜、部屋の窓をあけて、遠く地中海のあたたかな海辺にその想いを馳せるのだった。
こうして、彼女はいま、遠からずこの世を去ろうとしているのである。自分でもそれは承知していた。けれども彼女はそれを悲しいことだとは思わなかった。かえってそれを喜んでいた。
持って出たまままだ開いてみなかった新聞を展《ひろ》げると、こんな見出しが、ふと彼女の眼にとまった。
[#ここから6字下げ]
巴里に初雪降る
[#ここで字下げ終わり]
それを見ると、彼女は、水でも浴びせられたように、ぶるぶるッと身顫いをした。それからにッこり笑った。そして、遠くエストゥレルの群峰《やまやま》が夕陽をあびて薔薇色《ばらいろ》に染っているのを眺めていた。彼女はまた、自分の頭の上に大きく拡がっている、眼に泌みるような青い空と、渺茫《びょうぼう》たる碧い碧い海原とをしばらく眺めていた。
やがて彼女はベンチから起ちあがると、ゆっくりゆっくり自分の家のほうへ帰って行った。時折り咳が出た。彼女はそのたびに立ち停った。余り晩《おそ》くまで戸外にいたので、ほんの少しではあったが、彼女は悪感《さむけ》がした。
家へ帰ると、良人から手紙が来ていた。彼女は相かわらず微かな笑みをうかべながら、その封を切って、それを読みだした。
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日ましに快いほうへ向ってくれればと、そればかりを念じている次第だ。お前も早くここへ帰って来たく思っていることだろうが、余り当地を恋しがらないで、くれぐれも養生をしてくれ。二三日前から当地はめッきり寒くなって、厚い氷が張るようになった。雪の降るのももう間近いことだろう。お前とちがってこの季節が好きな自分は、おおかたお前もそう思っていることだろうが、お前をあんなに苦しめた例の煖房には、まだ火を入れないようにしている――」
[#字下げ終わり]
ここまで読んで来ると、彼女は自分があんなにまで欲しがっていた煖房を、とうとう据えつけてもらうことが出来たことを知って、しみじみと嬉しい気がして、そのまま先《さき》を読むのを止《や》めてしまった。そして、手紙を持っている右の手は、静かに静かに膝の上へ垂れて行った。一方、彼女はその左の手を、胸をひき裂くかと思われる、頑強な咳を鎮めようとして、口脣《くち》のところへ持ってゆくのだった。
底本:「モオパッサン短篇集 初雪 他九篇」改造文庫、改造社出版
1937(昭和12)年10月15日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「或る→ある (て・で)置→お 却って→かえって 兼ね→かね 呉れ→くれ 此の→この 直き→じき (て)了→しま 凡て→すべて 其→その 度→たび 何う→どう 筈→はず (て)見→み (て)貰→もら 矢ッ張り→やッぱり 訳→わけ」
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付しました。
※底本中、混在している「廻」と「※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]」はそのままにしました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(山本貴之)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年6月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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