たし――あたしねえ――何だか悲しいんですの――何だか、妙に気が重いんですの――」
 しかし、そう云ってしまうと彼女は何だか怖ろしい気がしたので、周章《あわ》ててこう附け加えた。
「それに――あたし、すこし寒いんですの」
 寒いと聞くと、良人はぐッと来た。
「ああ、そうだったのか、――お前にゃ、いつまでたっても煖房のことが忘れられないんだね。だが、よく考えてみるがいい。お前はここへ来てから、いいかい、ただの一度だって風邪をひいたことが無いじゃないか」
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 夜になった。彼女は自分の寐間《ねま》へあがって行った。彼女のたのみ[#「たのみ」に傍点]で、夫婦の寐間は別々になっていたのである。彼女は床に就いた。寐床のなかに這入っていても、やッぱり寒くて寒くて堪らなかった。彼女は考えるのだった。
「あああ、いつまで経ってもこうなのか。いつまで経っても、死んでしまうまでこうなのか」
 そして彼女は自分の良人のことを考えた。良人《あのひと》にはどうしてあんなことが云えるのだろう。なんぼなんでもあんまり酷い――。
「お前はここへ来てから、ただの一度だって風邪をひいたことが無いじゃないか」
 そんなら、自分が寒くて寒くて死ぬほどの思いをしていることを良人に解ってもらうには、自分は病気になって、咳をしなければいけないのだろうか。そう思うと彼女は急に腹立たしい気になった。弱い内気な人間のはげしい憤りである。
 自分は咳をしなければならないのだ。咳をすれば、良人は自分を可哀そうだと思ってくれるに違いない。そうか! そんなら咳をしてやろう。自分が咳をするのを聞いたら、なんぼなんでも、良人は医者を呼んで来ずにはいられまい。そうだ、見ているがいい、いまに思い知らしてやるから――。
 彼女は臑《すね》も足も露わのまま起ちあがった。そして、自分のこうした思い付きが我ながら子供ッぽく思われて、彼女は思わず微笑んだ。
「あたしは煖房が欲しいのだ。どうあっても据えつけさせてやる。あたしは厭ッてほど咳をしてやろう。そうすれば、良人《あのひと》だって思い切って煖房を据えつける気になるだろう」
 彼女はそこで裸も同然な姿のまま椅子のうえに腰をかけた。こうして彼女は時計が一時を打つのを待ち、更に二時が鳴るのを待った。寒かった。体はぶるぶる顫えた。けれども彼女は風邪を引かなかった。そこで彼女は意を決して最後の手段によることにした。
 彼女はこッそり寐間をぬけ出ると、階段を降り、庭の戸を開けた。大地は雪に蔽われて、死んだように寂然《ひっそり》している。彼女はいきなりその素足を氷のように冷たい、柔かな粉雪のなかへ一歩踏み込《こん》だ。と、傷のように痛く疼《うず》く冷感が、心臓のところまで上って来た。けれども、彼女はもう一方の足を前へぐいと踏み出した。こうして彼女は段々を静かに降りて行った。
「あの樅の木のところまで行こう」
 こう自分で自分に云いながら、彼女は雪に埋もれている芝生をつッ切って行った。息を切り切り、小刻みに歩いてゆくのだったが、素足を雪のなかへ踏み入れるたびに、息がとまるかと思われた。
 彼女は、自分の計画を最後までやり遂げたことを確めるつもりなのだろう、一番とッつきの樅の木に手を触れ、それから引ッ返して来た。彼女は二三度あわや雪のうえに倒れてしまうかかと思われた。体は凍り切ってしまって、もう自分の体のような気がしなかった。けれども、彼女はそのまま家へは這入らずに、しばしの間、この凍り切った粉雪のなかに坐っていた。そればかりではない。手に雪を掴むと、これでもかと云わぬばかりに、それを自分の胸に擦りつけるのだった。
 それから彼女は部屋に帰って寐た。一時間ばかりたつと、喉のあたりがむずむずして来た。蟻がそのへんをぞろぞろ這っているような気持である。また、別な蟻の群が自分の手足のうえを這い※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]っているような気もした。しかし彼女はぐッすり睡《ねむ》った。
 翌日になると、咳がしきりに出た。彼女は、もう床から起きることが出来なかった。肺炎になってしまったのである。彼女は譫言《うわごと》を云った。その譫言のなかでも、彼女はやッぱり煖房を欲しがった。医者はどうしても煖房を据えつける必要があると云った。良人のアンリイは承知したものの、厭な顔をしていた。
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 病気ははかばかしく快方に向わなかった。深く侵された両の肺は、どうやら彼女の生命を脅かすようになって来た。
「このままここにこうしておいでになっちゃア、奥さんは寒《かん》までは持ちますまい」
 
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