しど》を匍《は》い出した。三十年このかた同じ料理屋へいって、同じ時刻に同じ料理を食った。ただ料理を運んで来るボーイが違っていただけである。
 私は気分を変えようとして旅に出たこともある。だが、知らぬ他国にあって感じる孤独が恐怖の念をいだかせた。私には自分がこの地上にたッたひとりで生きている余りにも小ッぽけな存在だという気がした。で、私は怱々《そうそう》とまた帰途につくのだった。
 しかし、帰って来れば来るで、三十年このかた同じ場所に置いてある家具のいつ見ても変らぬ恰好、新らしかった頃から知っている肱掛椅子の擦り切れたあと[#「あと」に傍点]、自分の部屋の匂い(家というものには必ずその家独特の匂いがあるものだ)そうしたことが、毎晩、習慣というものに対して嘔吐を催させると同時に、こうして生きてゆくことに対して劇しい憂欝を感じさせたのである。
 何もかもが、なんの変哲もなく、ただ悲しく繰返されるだけだった。家へ帰って来て錠前の穴に鍵をさし込む時のそのさし込みかた、自分がいつも燐寸《マッチ》を探す場所、燐寸《マッチ》の燐がもえる瞬間にちらッと部屋のなかに放たれる最初の一瞥、――そうしたことが、窓から一《ひ》と思いに飛び降りて、自分には脱《のが》れることの出来ない単調なこれらの出来事と手を切ってしまいたいと私に思わせた。
 私は毎日顔を剃りながら我とわが咽喉をかき切ってしまおうという聞分けのない[#「聞分けのない」に傍点]衝動を感じた。頬にシャボンの泡のついた、見あきた自分の顔が鏡に映っているのを見ていると、私は哀しくなって泣いたことが幾度となくある。
 私にはもう自分がむかし好んで会った人々の側にいることさえ出来なくなった。そうした人間を私はもう知り尽してしまったのである。会えば彼らが何を云い出すか、また自分が何と答えるか、私にはもうちゃんとわかっているのだ。私はそんなにまで彼らの変化に乏しい思考のかた[#「かた」に傍点]や論法のくせ[#「くせ」に傍点]を知ってしまった。人間の脳などと云うものは、誰のあたま[#「あたま」に傍点]も同じで、閉め込みをくった哀れな馬が永久にその中でかけ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]っている円い曲馬場のようなものに過ぎまい。吾々人間がいかにあくせく[#「あくせく」に傍点]してみたところで、いかにぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ってみたところですぐまた同じところへ来てしまう。いくら※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ったって限りのない円なのだ。そこには思いがけぬ枝道があるのでもなく、未知への出口があるわけでもない。ただぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]っていなければならないのだ。同じ観念、同じ悦び、同じ諧謔《かいぎゃく》、同じ習慣、同じ信仰、同じ倦怠のうえを、明けても暮れてもただぐるぐると――。
 今夜は霧が深くたち籠めている。霧は並木路をつつんでしまって、鈍い光をはなっている瓦斯《ガス》灯が燻《くすぶ》った蝋燭のようにみえる。私の両の肩をいつもより重く圧《お》しつけているものがある。おおかた晩に食ったものが消化《こな》れないのだろう。
 食ったものが好く消化れると云うことは、人間の生活のうちにあってはなかなか馬鹿にならないものなのだ。一切のことが消化によるとも云える。芸術家に創作的情熱をあたえるのも消化である。若い男女に愛の欲望をあたえるのも消化である。思想化に明徹《めいてつ》な観念をあたえるのも、すべての人間に生きる悦びをあたえるのもやはり消化である。食ったものが好く消化れれば物がたくさん食えもする(何と云ってもこれが人間最大の幸福なのだ。)病弱な胃の腑は人間を駆って懐疑思想に導く。無信仰に誘う。人間の心のなかに暗い思想や死を念《ねが》う気持を胚胎《はいたい》させるものだ。私はそうした事実をこれまでに幾度となく認めて来た。今夜食べたものが好く消化していたら、私もおそらく自殺なんかしないで済んだろう。
 私は三十年このかた毎日腰をかけて来た肱掛椅子に腰を下ろした時に、ふと自分の周りにあるものの上に眼を投げた。と、私は気が狂ってしまうかと思ったほど劇《はげ》しい悲哀《かなしみ》にとらわれてしまった。私は自分というものから脱れるためにはどうしたら好いかと考えてみた。何か物をすることは、何もしずにいることよりもいっそういやなことだと思われた。私はそこで自分の書いたものを整理しようと考えたのである。
 私は久しい前から机の抽斗《ひきだし》を掃除しようと思っていたのだ。私は三十年来、同じ机の中へ手紙も勘定書もごたごたに放り込んでいたからだ。抽斗の中が手のつけようもないほどとッ散らかっていると思うと私は時折り厭な気持になることもあった。だが私は、整頓するということを考
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