なるともう五里霧中だった。他に何等の手掛りもない事件であった。
窓は、夕暮のほの寒さに皆ぴったりと閉めてあった。入口は、やはりこの商売の常で磨硝子《すりガラス》の扉が閉されていた。床にもさけ目などは全然無かった。帳場の押入れまで係官の一行は調べたのである。七人の男も、ひとりとしてその間、この室から出て行ったものはないのである。そして兇器は何処にもない。
傷は、たしかに短刀様の物でやられたことを物語っている。警察医はこの点署長に向って、若し見込み違いの時は直ちに辞表を呈出する、と断言したくらいであった。
南洋の男をつれて、殺されたもじりを運んで、一行はついに警察署へ引きあげて行った。が問題の兇器の行方は、いったいどう解決するのであろうか。よし南洋の男が犯行を自白するようなことがあったとしても、致命傷を作った兇器の出現が望めない時、社会は又警察が罪人を造る――法以外の鞭《むち》によって心にもない自白をなさしめた――そう騒ぎ立てるのではあるまいか。
翌朝の新聞には、この事件が相当な標題《みだし》で報ぜられていた。謎の兇器の行方と、小標題がついていた。
……私は話好きな友とたずさえて、撞球場への路を歩いていた。昨夜の交番のところから、撞球場までは二丁とない路のりである。家と家とに囲まれて、小さな空地などが町に珍らしい春草を見せていた。家々のどの軒にも、昨夜の事件が噂《うわ》さされている心地だった。
「いや僕は、たったひとつ、その兇器をかくす方法があったと思うんだ」私が云った。「僕が警察官だったら、一番にそれを調べて見るのだったが……」
「どんな方法だい、いったい?」と話好きな、この事件にも直ぐに興味を持った友が訊いた。
「あの場合、兇器を室外に運ぶ方法があったと思うんだ。尤も、これは取調べの上でなくては確実とは云えないが」
「だって、誰も外へ出ないし、窓も扉も閉まっていたと云うじゃないか」
「だが」と私は撞球場のだんだん近くなっていることを感じながら云った。「たったひとり、あの時室外に出たものがあるんだよ」
友は、誰だ? と訊ねる代りに、ひどく驚いた表情で私を見た。
「若しその人間が兇器を持って出たとしたら、あの場合、たしかに一時的にでも係官の眼をくらますことが出来た筈だ。そして僕は、間違いなく僕の考えが当っていると思うのだが――」
「誰だい、それを持出したのは?」とうとう友が口に出して訊いた。私は立止った。私達は小さな空地の傍まで来ているのであった。
「若し僕の考えが当っているとしたら、兇器は先ずこの空地の、その辺の叢《くさむら》に捨てられてある筈だが――」
私の言葉に、友は犬のような素早さで早速空地へ這入って行った。それからきょろきょろと草の間を眺め廻した。ステッキの尖端が柔かい春の土の上を縦横に動いた。
「いや捜すのは待ってくれ」私は懸命な声を出して友を止めた。「若しそこに兇器が見付かったら、却って僕は苦しむようなことになる気がする。止めてくれ止めてくれ。その代り僕のそう云う考えだけを話すから」
私は、あのゲーム取りの娘の、涙にくれる姿を胸に描いて踵《くびす》を返した。
あの南洋の男とゲーム取りとが、兄妹か何かであったとして、止むに止まれぬ事情があって、それであの黒子の男に対して、苦心の末にながい間の復讐をとげた――そう考えた場合、覚えの腕で短刀を投げて、首尾よく目的を果した南洋の男が、短刀に結んだ紐を引いて、それを突嗟《とっさ》の間に自分の手許から袖の中にでもかくしたのだ、としたら……事件が解って人々が騒ぎはじめる。ゲーム取りの娘が交番へ――その時、かねて喋《しめ》し合わした兄の手から妹の手へ、その兇器は渡らないでいるだろうか。妹は交番へ行く途中をたくみに兇器をどこかへかくしたのだ――磨ぎ澄まされた業物《わざもの》なら、大して眼につく程の血痕など附着する心配はない。あのゲーム取りと南洋の男に、些《いささ》かも関係はなかったと誰が云い得る? そして犯行は、決して物盗りが原因とは云えないのではないか。
私の考えはそれであった。私の脳裡にはもう一度、美しい娘の顔がうれわしげに浮んだ。私は娘が好きであった。あるいは、そんな言葉よりもっとつき進んだ感情があったかも知れなかった。
私は来た時の目的をひるがえして、空地を検《あらた》めるのを止めて引返した。この僅かな気持は、大方の読者にも解って頂けることと信じる。
友は私を追いかけて来た。そして諸君よ、ああ友は小さくもない声で云ったではないか。
「君、君、そのまま放っては置いたけれど、あの草の中に短刀があったぜ。血の付いてるところまでは見なかったが、新しい奴だ。柄を上にして、そう草の中へつき刺したものらしい。もう一度行って見るか?」
「違う違う、君の見違いだ。なんか
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