氏は、一枚の履歴書と学校の辞令と、戸籍謄本《こせきとうほん》とそれから空の蟇口《がまぐち》とをポケットに入れて、とにかく前へ前へと足を出した。
首をもたげる気にはなれなかったから、汚い地面ばかりを見て歩いたのである。しかしどうかすると氏と並行して、あるいは並行しないで、忙しそうに歩いて行くまたは歩いて来る沢山な足が視界に入った。また時には、それ等の足と足の間をとおして、通りの向こうの、立ち並んだ家々の脚部が見えた。人を満載して行くらしい電車の車輪が見えた。そしてその足や車輪や家並みが、氏にそれほどの人の中にも、知人一人のない淋しさを思わしめた。
空腹はもとよりのことであったが、歩いているうちはそれほどでもなかった。が、寝不足に似たいやな気持の頭の中では、エプロンを掛けた女の顔だの、めし屋の看板だの、卓《テーブル》の上の一本のスプンだの、味噌汁の色だの、そんなものが絶えずちらちらちらちらしていた。
なかば夢のようにそうして歩いているうち、寺内氏はいつか浅草の公園へ来ていた。里数にすれば三里近くもあるところを、いつの間にか瓢箪池《ひょうたんいけ》の、あのペンキの剥《は》げたベンチの一
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