えてずらかろうてんだからな、なあに行く必要なんかあるものか、広い東京で二度と再びあの刑事に出合うようなことはありはしない。警察へ行けばそれこそ折角《せっかく》の着物を取りあげられてしまう」
老人は上機嫌で、そんな風に説明した。そしてなお語をついで、
「な、これほど立派になったのだから、ここを出たらついでに床屋へ寄って、顔を奇麗にしてくるがいい。そしたら俺が、もっともっと面白いことを教えてやるぞ。決して罪じゃないんだからな。そしてこん度のは、うまくゆけば相当な金になろうもしれぬ。いいや金でなんか買えぬいいことがあるかもしれぬ。お前さんは人間がしっかりしているから、ひょっとすりゃ、それでまた世の中へ帰れるかもしれないや。ま、そのことはそれでいい、とにかく早く顔を当たって来ることだ。俺は公園で猿とでも遊んでいるからな」
老人のいう、つぎのいいことは何であろう? 寺内氏は、朝からの、いや昨夜からの経験で、もう絶対に老人を信じていた。そしてこの愉快な生活に、今はほとんどの同意をさえもつようになっていたのである。
氏は付近の床屋で快い鋏《はさみ》の音を耳近くききながら、老人のつぎの『いいこと』を考えていた。
――自分は寝た。そして食った、着た。そのうえにいいこととは何であろう? 金か、いや老人は金以上のものがといったのである。金以上のものといえば――おお女、老人は自分にひとりの恋人を与えようというのではあるまいか?
寺内氏は浮き浮きとした気持になって床屋を出、老人の待っていよう公園へ引っ返して行った。
「いいかい、この町には名前がないんだからな、こんな町は参謀本部の地図にだってありはしない。よく聞いていて間違わないようにしなければ――」
老人はそう前置きをして、さてつぎの『いいこと』のある場所を教えるべく、公園の一箇所の、なめらかな土の上に、石でもって面白い線を引きはじめたのである。
「ここが三越だ、いいかい、そしてここが駅、この三越と駅にこう線をひいて、このところから直角に、こうしばらく行くと白いポストのある煙草屋の前に出る。うん、ペンキがはげて白くなっているんだ。この煙草屋の右に路地があるからな、この路地をこう行くと、右側の家を数えて、一軒二軒三軒四軒目のところで路がこう二つに分かれている。これを左に行っちゃいけない。これからは一本路だから、これを右へ右へと行く。すると十四、五分歩いたところで黒い板塀につき当たるから、かまわずその板塀を向こうへ押し開けばいい。いいな。するとこんな恰好《かっこう》のせまい静かな通りへ出るから、いいかい、いよいよこの通りへ出たら、できるだけ静かに、口笛を吹いてこちらからこちらへゆっくり歩くんだ。うんそれだけでいい。そうやっていればきっといいことが起こる。決してびくびくしちゃいけない。どこまでも元気に、そしてどこまでも太っ腹で――まあとにかく行ってみるんだな。何もなかったらまた浅草へ帰って来るさ。俺はたいていあの時間にはあのベンチに行っているからな」
老人のいう言葉には何か力といったものが感じられた。その結果がいかなるものとも予想さえつかなかったが、なおしばらく右の冒険について老人と問答を交した末、寺内氏は勇敢にもその地図にない町をさして行くことに決心したのだった。
日は長くなったとはいえ、都会の夕暮は公園のベンチへも間もなく来た。まだ五時にはいくらかの間があったであろうが、夕刊の鈴はやかましくひびき、家々の軒には郷愁を呼ぶような冷たい電燈が輝きそめた。
老人と別れた氏は、不思議な興味に胸をおどらせながら、示された三越と駅のあの線から、ポストの煙草屋、それから一軒二軒三軒といわれたところの、疑問の町を訪ねたのである。
煙草屋の路地を入ったあたりは、まだそこここの家裏と変わった感じでもなかったが、それが一歩、四軒目の家の角を曲がると、東京の、しかも繁華なこの一角に、こんな奇妙な路地があったかと驚くばかり、その路地はゆれゆれと折れ曲がって、しかも左右のどの家もが、皆黒い板塀にかこまれて、その路地へ対しては、一軒として便所の口さえも開いてはいないのである。まことに世をすねた好事家《こうずか》が、ひそかに暇潰《ひまつぶ》しにこしらえたとも呼びたい、それはなんの意義をも持たぬかに見える全くの袋小路であった。
行くことわずかにして、いわれた通りの板塀に突き当たった。氏は押してみた。そして驚くべきことには、そこにまた、かの老人のいった如くに、そこにはいとも物静かな、格子のあるしもた屋の一番地が、ひっそりと氏の前にひらけたのである。氏は思い切って静かに口笛を吹いた。そのやわらかな音律《リズム》は、人ひとりいるとも見えぬその家々の軒を、格子を、ノックするように流れていった。
私はここで、それから氏
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