しい人間であるか否《いな》かと、その丸い顔を、柔和な眼を、健康そうな表情を、それからがっしりした老人の体格をただみつめていた。
「学校の先生ってつまらないな」
その老人は続いていった。が、氏にはまだ言葉を返すことができなかった。
「蟇口ってやつもおよそしようのないもんだな」
――この老人はいつの間にこのベンチに来て、またいつの間に、そんな氏が士族の子弟であり、かつて小学校に奉職していたことなどを知ったのであろう? と氏はやはり老人の面をみつめたまま黙っていたというのである。
「どうだ、食わないか?」
はっはっはと老人は笑いながら、それまでもぞもぞやっていた毛布のふところから、一個の新聞紙包みを出して開いた。そして食い残しらしい八、九本のバナナが、急に氏の食欲を呼び覚まさした。手を出すのじゃない、手を出すのじゃない、とわずかな理性があの北海道行き人夫の末路を想像させた。がその時、氏は到底《とうてい》その誘惑には勝つことができなかったと述懐した。
「いただいてもいいのかしら――」
若い寺内氏はそういったつもりであったが、急に覚えた口中のねばねばしさで、それは唇から洩《も》れずして消えてしまった。が、つぎの瞬間には、理屈も何もなく、氏はもうくだんの老人と並んで、仲よくそのバナナの皮をむいていたのである。そしてその味のなんと咽喉《のど》にやわらかく触れたことであろう!
「煙草《タバコ》はやるのかい?」
と食い終わったところで老人が訊いた。食後の一服を氏は予想していなかったが、そう問われてみると、押えがたい喫煙の欲が、冷えた指の先々まで漲《みなぎ》ってくるのだった。
「おや、もう喫《の》んでしまったかな、確かにまだあったと思ったが――いいや、まだやっているだろう、ちょいと行ってもらって来よう」
氏がまだそれと答えないうちに、毛布の中で手を動かしていた老人は、身体のどこにも煙草がなかったと見えて、そんなことを呟《つぶや》くとそのままベンチを立ち上がった。
そして老人が煙草を持って帰って来るまで、氏の胸を往来した思念は、過去への呪いでもなければ前途への想像でもなく、今去って行ったその老人の、果たしていかなる種類の人間であるかということであったという。
その服装で見れば、いかに土地不案内な寺内氏にも、老人は乞食以外の何者にも見えなかった。しかし乞食といってしまうには
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