はしていた覚えがある。
怒りのためにことに鋭く見開かれていた眼や、呪いのために特に激しかった言葉の調子や、それから壮士の如《ごと》き態度、時折猫のように廊下へ気を配る様子などは、確かに私達の氏に対する考えを誤まらした。氏は私達同様、この朗らかの青空の下で、悠々人間としての権利を主張してよかったのだ!
私は氏のためにこの物語を発表してみようと思う。たとえこれが氏の自殺を病死なる誤まられた名称から救うことができないとしても、それが一人でもこの真実を考えてくださる方があれば、地下の氏へは幾分の満足であろうから。またこの物語に現われた、氏の運命はやがて私達の一面の運命でもあろうと信じられるから。
恐ろしいこの物語は、三十幾歳で死んだ氏の二十幾歳の、春の、どちらかといえばものおかしい冒険から始まっている。だが読者は、微笑の陰には常に黒いマスクのひそんでいることを知ってくれるに違いない――。
――寺内氏はその時、もう都会というものに少しの未練をも感じてはいなかったとのことである。職業紹介所というものも、限られた特殊な人々にだけ必要なもので、それ以外に何の意味を持つものでないと悟《さと》った氏は、一枚の履歴書と学校の辞令と、戸籍謄本《こせきとうほん》とそれから空の蟇口《がまぐち》とをポケットに入れて、とにかく前へ前へと足を出した。
首をもたげる気にはなれなかったから、汚い地面ばかりを見て歩いたのである。しかしどうかすると氏と並行して、あるいは並行しないで、忙しそうに歩いて行くまたは歩いて来る沢山な足が視界に入った。また時には、それ等の足と足の間をとおして、通りの向こうの、立ち並んだ家々の脚部が見えた。人を満載して行くらしい電車の車輪が見えた。そしてその足や車輪や家並みが、氏にそれほどの人の中にも、知人一人のない淋しさを思わしめた。
空腹はもとよりのことであったが、歩いているうちはそれほどでもなかった。が、寝不足に似たいやな気持の頭の中では、エプロンを掛けた女の顔だの、めし屋の看板だの、卓《テーブル》の上の一本のスプンだの、味噌汁の色だの、そんなものが絶えずちらちらちらちらしていた。
なかば夢のようにそうして歩いているうち、寺内氏はいつか浅草の公園へ来ていた。里数にすれば三里近くもあるところを、いつの間にか瓢箪池《ひょうたんいけ》の、あのペンキの剥《は》げたベンチの一
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