すわ」
「それで、その男は何者だね?」
星田代二は思わず急き込んでそう訊ねた。
「あら」と、女給は笑いながら、「その方、男じゃありませんわ。女の方よ、ほら、あなたも御存じでしょう? 三映キネマのスタア、宮部京子よ」
「ナ、何んだって、宮部京子があの晩一緒だって……」
突然、星田は椅子から飛び上りそうになってそう叫んだ。
無理もない、彼はたった今、その京子の死体を見てきたばかりのところなのだ。そして、その殺人犯人としての自分の、のっぴきならぬ窮地から遁れようと思って、わざわざこのカフェーまでやってきたのだが、あの晩、京子がこのカフェーに来ていたとは、一体、これは何を意味するのだろう。
「ほほほほ! 先生の驚きようたら! それじゃ、あの手紙にはよっぽどいい事が書いてあったのね」
「何? あの手紙って何んだね?」
激しい驚きのうちにも、星田は女給の言葉尻を捕えることは忘れなかった。
「あら、あなたお受取りになったのでしょう。京子さんがここからお出しになった手紙よ」
「京子が――? ここから――?」
「ええ、そうよ、あなた方がお帰りになったすぐその後で、京子さんが一通の手紙をお書きになって、あたしに、速達にして出してくれと仰有《おっしゃ》ったのでよく覚えていますわ。上書は、たしかにあなたの名前でしたもの」
星田はふいにわけの分らぬ混乱におち入った。しばらく彼はそわそわとあたりを見廻しながら、落着きなくポケットの中を探っていたがやっと、くしゃくしゃになった一通の封筒を取出した。
「その手紙というの、これじゃなかった?」
「あっ! それよ。まあ、後生大事に、肌身離さずというわけなのね。先生、おごって頂戴よ」
「いや、そんなことはどうでもいいが、君、間違いないだろうね。たしかにこの手紙だったろうね」
「ええ、間違いありませんわ。あたし、京子さんて方、割に字が拙《つたな》いのねと思ってみていると、あの女《ひと》がわざと手蹟《て》を変えたのよと言ってお笑いになったから、よく覚えて居りますわ」
「いや、有難う。じゃ、また後程ゆっくり来るよ」
カフェーを飛び出した星田代二の頭は、まるで渦のように泡立ち乱れていた。
それじゃ、あの挑戦状を寄越したのは京子だったのか、かつて、自分を裏切り、最近三映キネマの首脳女優として素晴らしい喝采を博していた宮部京子。――とすれば、現在今日、鎌倉でみて来た京子の死は一体何を意味するのだろう。京子は自分に「完全なる犯罪」を実証するために自殺したというのだろうか。
いやいや、そんな馬鹿々々しいことが信じられる筈がない。
誰かが、見えざる敵が、自分と京子を操っているのだ。そして、「完全な犯罪」劇を演ずるために、京子を被害者に、自分を加害者に選んだのに違いないのだ。だが、そいつは一体何者だろう。
星田の頭には、又しても、あの気味の悪い、鋭い眼の持主のことが浮んできた。
「あいつだ! あいつが何も彼も操っている人形師なのだ」
しかし、残念なことには、女給たちの誰もが、その男については何一つ知らなかった。その男ばかりではない。もう一人の洋装の女についても知っている者はなかった。
しかし、星田はもう決して失望しなかった。あの二人が京子と一緒だったという以上、最近の京子の生活状態を調べてゆけば、必ずや彼等の素性が分るものと思い込んだからである。
星田は一先ず家へ帰って、もう一度よくこの問題を考えてみようと思った。しかし、彼が一歩、自分の部屋へ入った刹那星田代二は真蒼になってそこに凝結した。
部屋の中には、正岡警部がいた。そして警部の背後には、明かに刑事と思われる二人の人物がいかめしい顔をして突っ立っているのを見たのである。
「星田君! 気の毒だが警視庁まで来て貰おう」
警部は重々しい口調でそういった。
「ナ、何んのためです!」
星田代二は辛うじて扉《ドア》の側で身を支えた。
「何のため? それは今更説明する迄もあるまい。宮部京子|殺《ごろし》の嫌疑者として――」
底本:「「探偵クラブ」傑作選 幻の探偵雑誌8」光文社文庫、光文社
2001(平成13)年12月20日初版1刷発行
初出:「探偵クラブ」
1932(昭和7)年11月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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