台の赤銅鉄運搬車が軌道《レール》を遮りて留め置かれありし事実あり。最後に、パーシヴィアランス炭坑引込線のみは複線なり、該坑は産額はなはだ多きをもって、六月三日も平常の如く絶えず線路を使用し、二|哩《マイル》四分の一なる全線に沿うて数百の労働者が就業しつつありしも、本線より列車の闖入《ちんにゅう》せるを認めたるもの無し。しかしてこの引込線は、かの機関手の死体の発見されたる地点よりはセント・ヘレン駅により近きをもって、問題の列車は、椿事に出会《しゅっかい》する前、該線の分岐点を通過せしものと信ずべき理由あり。
『機関手のジョン・スレーターに関しては、彼の負傷の模様を検査するも何等の手掛りを引出し得ず、ただ本職は、本職の推定し得る限りにおいて、機関車よりの墜落が彼の死因なることを確言し得るのみ、何故《なにゆえ》彼が墜落せしか、また彼の墜落後機関車がいかになりしかについては全然推測の限りにあらざる次第なり云々。』

       二

 それから一月《ひとつき》が経った。会社も警察も、絶えず捜索を続行はしていたけれど、毛筋ほどの手掛りさえ見出すことが出来なかった。懸賞金が提出されたりした。人々は「今日こそは」という期待をもって毎日の新聞を取上げた、けれども週また週が、この奇怪《グロテスク》な秘密の幕を切って落すことなしに空しく過ぎて行った。六月の午後の真昼間だというに、そして所はといえば、英国きっての人口の稠密《ちょうみつ》な地方だというに一列車が乗客を載せたまま、熟練な化学実験の大家《たいか》が空々《くうくう》たる瓦斯《ガス》にでも変化してしまったかのように、影も形も見えなくなったのだ。
 実際、当時の諸新聞に掲げられた種々様々な推測の中《うち》には、この事件の背後には、何か理外の理ともいうべき超自然的な魔力が働いたのだと論ずるものすらあったほどだ。けれども、「タイムス」紙上に掲げられた、当時かなりに有名な寄稿家として知られていたある論客の署名の下《もと》に論ぜられた一文は、読者の注意を惹くに充分だった。それは批評的な半ば科学的な方法で事件を論じようと試みたものだった。記者は下《しも》にその主要部分を抄出してみたい。
『………該列車がケニヨン駅を通過したることは確かなる事実なり。しかしてまた、バートン・モスに到着せざりしことも確かなる事実なり。列車が七個所の引込線中の一に進入したるやも知れずとの考えは、おそらく最高の程度において事実らしからぬことなり。されども、それにもかかわらず、可能なることなり。列車が軌道《レール》なき土地を進行するは明らかに不可能なり。従《したがっ》て吾人《ごじん》は、この「事実らしからぬこと」を次の三引込線に帰せんとするものなり。すなわち、カーンストック引込線、ビッグ・ベン引込線、パーシヴィアランス引込線の三を「可能なる」ものと認むるものなり。思えらく、右諸炭坑には、一種の秘密結社の如きものあって、列車をも乗客をも闇の中に葬り去るべき奇怪なる能力あるにや? こは事実らしからぬことに見えて、実は決して事実らしからぬことにあらず……………吾人はここに確信をもって会社に忠告し、もって、会社が該引込線と、その終点に働く労働者等につき、全力を傾注して探査せんことを希望するものなり云々。』
 この推測は、さすがにこうした事件に関して定評のある権威《オーソリティー》の説だけに、かなりの興味を惹起したのは無理もない。しかし、またこの説に対して反駁を試みる者は、論者は善良な人々に対して不自然な誹譏《ひき》を予想するものであるといって攻撃の矢をむくいたりした。ある者はまた次のように論じた。『列車は過《あやま》って軌道《レール》を滑り出した後《のち》、数百ヤードの間|軌道《レール》に沿うて流れておるランカシアー運河の中へ陥没してしまったものだろう』と。けれどもこの臆説は不幸にしてたちまち却下された。運河の水深が発表された結果、そうした巨大な物体を水底に匿《かく》し横たえておるべく余りに浅いことがわかったのである。その外《ほか》にも、いろいろ勝手な臆説、仮説を立てるものもあった。が、その時に当って、突如として全く思いがけない一つの挿話《エピソード》が湧上った。
 というのは、例の失踪列車の車掌だったジェームス・マックファースンの妻が、夫マックファースンから一通の手紙を受取ったということなのだ。手紙は、その年の七月五日付で、米国の紐育《ニューヨーク》から投函されたもので、彼女の手に渡ったのは七月十四日の事だった。それは、彼女の証言によれば、紛《まが》うべくもない本人の筆蹟で、殊に中には、米国の五|弗《ドル》紙幣で百|弗《ドル》の大金が封入してあったのだ。手紙には宿所が記入してなかったが、文言は次のようだった――
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『我が親愛なる妻よ。――自分は今まで考えに考えた。が、自分は到底お前と別れ別れになっておるに忍びないことを覚《さと》った。リッジーに対しても同様である。自分はこの心と戦って来たのだ、けれども自分の胸にはやはりいつもいつも御前が帰って来るのだ。英貨にすれば二十|磅《ポンド》の金、それだけの金を自分はお前宛に送る。それだけあればお前とリッジーとが大西洋を航海して来るに充分だと思う。そしてお前は、サザムプトンへ寄港するハンブルグ汽船会社の船でやって来るがいい。[#「。」は底本では欠落]船もよいし、リヴァプール汽船会社のよりは賃金も廉《やす》い。もしお前がここへ来てくれて、ジョンストン館《ハウス》へ投宿するなら自分は何等かの方法で、お前に会う手段を講ずるつもりである。しかし現在自分は身の置き所もないほどの身だ、それにお前達二人を忘れかねて、非常に不幸な日を送っているのだ。今はこれにて、お前の愛する夫から――ジェームス・マックファースン。』
[#ここで字下げ終わり]
 そして、一時は、この手紙こそやがて全事件の真相を説明するものに相違ないのだと人々からは確信をもって予想されもしたのだ。彼女はその妹のリッジー・ドルトンを連れて、手紙の趣のように紐育《ニューヨーク》へ渡って、指定のジョンストン館《ハウス》に三週間も滞在した。けれども夫たる失踪者からは一言の知らせさえもなかった。というのは、大方、それについて無分別にも色々書き立てたある新聞の記事に智慧をつけられて、本人のマックファースンが「ここでうかうか妻に会っては足がつく」と覚ったためでもあろう。細君の一行も、またリヴァプールまですごすごと引返《ひっかえ》さなければならなかった。
 かくして、カラタール氏等を載せた臨時列車の紛失事件が未解決のままに、今年まで徒《いたず》らに八年の歳月が流れた。ただ、不幸な二人の旅客の来歴を精《くわ》しく探査するにつれて、カラタール氏なる人が中央|亜米利加《アメリカ》における財政家で、政治的代表者であったこと、彼が欧洲への航海中、居ても立ってもおられないほど巴里《パリー》へ早く足を入れたがっていたという事実だけが解ったのであった。それからあの連れの男というのは、船客名簿にはエドゥアルド・ゴメズと記入されたが、この男こそは稀代の兇賊として、また暴漢として中央|亜米利加《アメリカ》を震駭《しんがい》させた危険人物だということも解って来た。けれども、ゴメズがカラタール氏に心服して仕えていたことは疑いのない事実だった。カラタール氏は、前にも言ったように、小兵な体躯《からだ》なので、護衛者としてゴメズを傭《やと》っていたのだ。
 が、そのカラタール氏が大急行で巴里《パリー》まで行こうとしたその目的は一体何であろう――それについては、巴里《パリー》方面からは何等の報道も来なかった。しかし、列車事件にからんだ凡ての事実は、この一事の中《うち》にこそ一切の秘密を集めているのではないか、この一事さえはっきりと解るならば………
 そこへ、あのマルセイユの方の諸新聞に一せいに掲げられたヘルバート・ドゥ・レルナークの告白とはなったのだ。ヘルバート、それはボンヴァローという一人の実業家の殺人犯人として死刑の宣告を受けて、現にマルセイユの監獄に繋がれている男なのだ。記者は次にその告白の全文を文字通りに訳出してみたいと思う――
『自分がこの告白の公表を敢てするのは、決して単なる誇慢の心からではない。もしそれが目的ならば、自分は自分の美談として世に残るべきほどの行為を十ほども数え挙げることが出来るものだから。そんなことではない、カラタール氏の運命についてここに語ることの出来る自分が、同時にまたあの事件を何人《なんびと》の利益のために、何人《なんびと》に依頼されて実行したかをあばくことの出来る人間であるということを、現在|巴里《パリー》に時めく若干《なにがし》かの紳士《ジェントルマン》等に思い知らせるためである。もしその紳士《ジェントルマン》等が余の死刑執行に対して猶予の方法を一日も速《すみや》かに講じようと欲しない限りは。閣下等よ、警戒したまえ、臍《ほぞ》を噛むとも間に合わぬような失態を演じないうちに!閣下等はこのヘルバート・ドゥ・レルナークをよく御存じのはずだ、そしてレルナークの行為《おこない》は語《ことば》のように速かであることをお忘れではないはずだ。今は一日を惜む。でないと、閣下等の万事は休するのだ!
『なるほど現在では、自分も口をつぐんで閣下等の尊名をあばくことをすまい。しかし、自分がかつて自分の抱え主等に対して忠実を誓ったように、彼等は現在の余に対して忠実であるだろうことを自分は信じたい。自分はかく希望する、そしてもし自分が、不幸にして彼等が遂に自分を裏切ったという確信を得るに至るであろうならば、それらの姓名を天下に公表するべく自分は一時も躊躇しないであろう――おそらくそれらの罪の名は全欧洲を震駭するでもあろうが。
『一口にいえば、当時――千九百――年――巴里《パリー》には、政治経済界に勃発した奇々怪々な疑獄事件に関連して有名な恐慌がやって来たのだ。仏蘭西《フランス》を代表する幾多の巨頭の名誉と経歴とは全く危機に瀕していた。そこへもし大西洋の彼方から、あのカラタール氏が爆弾のように飛込んで来ようものなら、彼等巨頭連の存在は一たまりもなく将棊《しょうぎ》倒しにされてしまうのだ。しかもその爆弾は今まさに南|亜米利加《アメリカ》から、巴里《パリー》の空|目蒐《めが》けて飛翔の準備中であるという警鐘は乱打されているのだ。そこで、どうしてもカラタール氏をして仏蘭西《フランス》の地を踏ませない策略を講じなければならないこととなった。そこで彼等は組合《シンジケート》をつくって危急に当ろうと決心した。組合は無限の金力を動かすことが出来た。この巨大な金力を自由にふるって、カラタール氏の入国を絶対にはばむことの出来る人物を彼等は求め始めた。人物、それは独創力に富んだ、果断な、そして眼から鼻へ抜けるような男――百万人中の一人でなければならなかった。彼等はこのヘルバート・ドゥ・レルナークを択んだのだ。その点で自分は彼等の、否《いな》閣下等の明を正しいと言っておく。
『自分の義務は、多くの輩下を探し出し、金力を自由に駆使して、カラタール氏の入国入市を妨害することだった。命令一下、自分は非凡な精力を傾けて、すでに一時間の後《のち》には義務を遂行すべく秘密の活躍を開始していた。
『自分は自分の片腕と頼む男を南|亜米利加《アメリカ》に急行させてカラタール氏と同船させることにした。もしこの男の着米が今一歩早かったならば、船は決してリヴァプールの港を見ることが出来なかっただろうに。けれども、船は既に出航した後《のち》だったのだ、あらゆる偉大な策略家がそうであるように。しかし、自分は失敗に対する第二策第三策をちゃんと準備していたのだ。で、この場合、我々は単にカラタール氏の命を奪えばいいのではない、カラタール氏の携えている書類をも、そして彼の従者等の命をも、もしカラタール氏が彼等に秘密を打明けておると信ずべき理由があるなら、奪わなければならないのだ。
『大西洋の彼方で長蛇を逸し
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