白銀の失踪
SILVER BLAZE
コナンドイル Conan Doyle
三上於莵吉訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)行《ゆ》かなくちゃ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五十三|哩《まいる》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「」」は底本では欠落]
−−

「ワトソン君、僕は行《ゆ》かなきゃならないんだがね」
 ある朝、一緒に食事をしている時にホームズがいった。
「行くってどこへ?」
「ダートムアだ――キングス・パイランドだ」
 私は格別おどろきもしなかった。事実、私は、今全イングランドの噂の種になっているこの驚くべき事件に、ホームズが関係しないということをむしろ不思議にさえ思っていたのである。前の日、ホームズは終日眉根をよせた顔を首垂《うなだ》れて、強い黒煙草をパイプにつめかえつめかえ部屋の中を歩き廻ってばかりいて、私が何を話しかけても何を訊ねても石のように黙りこくっていた。あらゆる新聞の新らしい版が出るごとに、いちいち配達所から届けられたが、それすらちょっと眼を通すだけですぐに部屋の隅へ投げすてた。しかも、彼が一言も口をきかないにも拘らず、彼の頭脳《あたま》の中で考えられていることは、私にはよく分っていた。いま彼の推理力と太刀打ちの出来る問題といえばただ一つ、ウェセックス賞杯《カップ》争覇戦出場の名馬の奇怪なる失踪と、その調馬師の惨殺された事件があるのみだ。だから彼が突然、その悲劇の現場《げんじょう》へ行くといい出したことは、私にとっては予期していたことでありまた希望していたことでもあったのだ。
「差支えがなければ僕も行ってみたいんだがね」と、私はいった。
「君に来てもらえれば大変有難いんだが。この事件は極めて特異なものだと思われる節があるから、君にしたって行くことはまんざらむだにはなるまいと思う。今からパディントン停車場へ行けば、ちょうど汽車の時間にいいだろう。委《くわ》しいことは途々《みちみち》話すとして、すまないが君のあの上等の双眼鏡を持って来てくれたまえ」
 それから一時間あまりの後には、私はエクスタ行の一等車の一隅に腰かけていた。シャーロック・ホームズは耳垂れつきの旅行用ハンチングを被った顔を緊張させて、パディントンで新らたに買った新聞に忙しそうに眼を通していた。そしてリイディングをずっと過ぎた頃、彼はそれ等の新聞をまとめて座席の下へ突込み、シガー・ケースを取出して私にもすすめた。
「至極順調に走ってるようだね」
 ホームズは窓の外を眺めながらそういった。そして時計を出して見て、
「今ちょうど速力は一時間五十三|哩《まいる》半だ」
「四分の一哩標が見えなかったようだが」
 と、私はいった。
「僕はそんなものは見やしないよ、だが、この線路の電柱は六十ヤードごとに立ってるのだから計算は極めて簡単に出来るんだ。ところで、ジョン・ストレーカ殺しと白銀号《しろがねごう》失踪事件については、もう十分知ってるんだろうね?」
「テレグラフ紙とクロニクル紙との記事は読んだ」
「この事件も探究の方法としては、新らしい証拠を求めるよりも、既に知れている些末な事実を分析し淘汰して行く方が、賢い方法かも知れぬ。今度の事件は非常に珍らしい事件で巧妙に行われ、その上多大の人々に重大な関係を持ってるものだから、いろいろと揣摩臆説が行われるんで困らされてるんだが、要するに問題は事実の骨組を、絶対に動かすべからざる事実の骨組を、諸説紛々たる報道の中から掴み出せばいいんだ。そして、それが出来たら、そのしっかりとした根底の上に立って、そこからいかなる推論が出て来るか、事件の秘密はどの点にかかっているかということを発見するのが我々の役目だ。僕は火曜日の晩に、馬の持主のロス大佐と事件担当のグレゴリ警部との両方から、来て一緒に調べてくれという依頼の電報を受け取ったんだ」
「火曜日の晩に?」私は叫んだ。「今日は木曜日じゃないか。何んだって昨日のうちに行かなかったんだい?」
「僕がどじを踏んだんだよ君、そうした失敗は、君の記録によってのみ僕を知る人々が考えているよりもはるかにちょいちょい僕にはあるんだよ。こういうわけさ、――イングランド一流の名馬がそう長く行方の知れないわけがない、殊にダートムアの北部のような人口の稀れな地方にあっては、そんなことはあり得ないと考えたんだ。だから、昨日は、今に馬盗人が知れた、そしてストレーカ殺しもその馬盗人と同一人だったと知らせて来るかと、そればかり待ち暮したんだよ、しかし、また一日が空しくすぎて、今朝になってみると、フィツロイ・シンプソンという青年が捕まったきりで、事が少しも捗らないようだから、いよいよ自分の出場《でば》が来たと思ったんだ。とはいっても、昨日だって決して空費したわけではないがね」
「じゃ、見込でもついたのかね?」
「少くとも事件の主要な事実だけは掴んだ。それを君に話してきかそう。他人に事件の経緯《いきさつ》を話してきかせるくらい自分の考えをはっきりさせ得ることはないのだし、それに事件をよく知ってもらって、どこから手をつけるべきかを話しておかないと、君にしても助力のしようがあるまいからね」
 私はクッションに身を埋《うず》めて葉巻を吹かしながら、ホームズが身体を前へ乗り出して、要点ごとに細長い人差指で左の掌を叩き、事件の大体を話すのをきくのであった。
「白銀号というのはアイソノミ系の馬だが、祖先の名を恥かしめぬ立派な記録を持っている。今は五歳で競馬のあるたびに賞品をみんな攫って来るんで、持主のロス大佐は非常にうまくやってるわけだ。現に今度の事件の起るまで、白銀号といえばウェセクス賞杯《しょうはい》争覇戦第一の人気馬で、賭もほかの馬に対して三対一という割合だった。それほど競馬界切っての人気をつづけて来ながら、まだ一度もその贔負に失望を与えたことがないものだから、少々ぐらい賭金は高くても、依然として白銀号には莫大な金が賭けられるというわけなんだ。だから、この火曜日の決戦に白銀号が出られなくするということは、多くの人々に非常な利害関係を持つことになる。
 この事実は、むろん大佐の調馬場のあるキングス・パイランドではよく心得ていた、調馬師のジョン・ストレーカという男はもと騎手で、ロス大佐の騎手をやっていたが、体重が重くなったので止めたんだ。騎手として五年、調馬師として七年大佐に仕えているが、その間いつも熱心で正直な男としてつとめて来た、規模の小さな調馬場で、馬が四頭しかいなかったから、ストレーカの下に三人の若い者がいるだけで、そのうちの一人が毎晩|厩舎《うまや》に寝ずの番をし、あとの二人は厩舎の二階に寝ることになっていた。三人とも至極性質のよい若者だ。ストレーカには妻があって、厩舎から二百ヤードばかりはなれたところにある小さな家《うち》に住んでいた。子供はないが女中を一人おいて気楽に暮していた。この附近は極めて淋しいところで、だだ半哩ばかり北の方に、タヴィストック市のある請負師が、病人や、ダートムアの新鮮な空気を楽しみたいという人達をあてこんで建てた別荘風の家が一かたまりあるだけだ。タヴィストックへは西へ二哩ばかりあり、荒地《あれち》を越して二哩ばかり行くと、ケープルトンにはかなり大きな調馬場がある。これはバックウォータ卿の所有で、サイラス・ブラウンという男が管理している。そのほかどっちを見ても、荒地は全く人気《ひとげ》というものがなく、ただわずかに漂白《さすらい》のジプシーが二三いるくらいのものだ。これが日曜の晩に事件が起るまでの大体の状況だ。
 当夜はいつもの通り馬を運動させて、水をやった上九時に厩舎の戸を閉めて戸締りをした。そして三人の若い者のうち二人は台所で夕飯を食べに調馬師の家まで歩いて行くし、あとの一人ネッド・ハンタだけは厩舎に残って番をしていた、すると、女中のエディス・バクスタが九時ちょっとすぎに、羊のカレ料理の夕飯を運んで来てくれたが、それには飲みものは何も添えてなかった。仕事中は水以外の飲みものは飲んでならないことになっていたし、水なら厩舎にいくらでも出る栓があるからだ。非常に暗い晩だったので、それに途中は淋しい荒地だったので女中は提灯を持っていた。
 女中のエディス・バクスタは厩舎から三十ヤードばかりのところまで来ると、暗がりの中から不意に声をかけて一人の男が現われて来た。提灯の投げる丸い光の圏内まで来たのを見ると、鼠色のスコッチの服を着て羅紗のハンチングを被った紳士風の男で、ゲートルをつけて、握りの玉になってる太いステッキを持っていたという。が、エディスが特に印象づけられたのは、顔色がひどく蒼ざめて、何んとなく挙動のそわそわしてることだった。年は三十をちょっとすぎたくらいだったという。
「一体ここはどこなんですか?」
 と男は訊ねた。
「仕方がないからこの荒野で野宿をしようと決心してるところへ、お前さんの灯が見えたんでホッとしたわけですよ」
「ここはキングス・パイランド調馬場のすぐ側《わき》です」
「おお、そうだったか! それはまあ何んという仕合せなことだろう! ふむ、毎晩一人ずつ厩舎で寝るんだと見えるな。それでいまお前さんが夕飯を持って行って来たんだな。ところでお前さん、新らしい着物が一重ね拵えられるお金の儲かる話があるんだが、嫌だなんて見栄を張るお前さんじゃありますまいね?」男はチョッキのポケットから折りたたんだ白い紙を取出して、「これを今晩の中《うち》に厩番《うまやばん》に手渡してくれれば、お前さんは飛切|上等《じょうら》の晴着が手に入るんだがね」
「女中がこの男の様子があんまり真剣だったので恐くなって、すりぬけるようにしていつも食事を渡すことになってる厩舎の窓のところへ駈けて行った。と、ハンタはもう窓を開けて、小さなテーブルに向って食事をしていた。ネッド実はいまこれこれだと話しかけてると、そこへまたも先刻《さっき》の男が追っかけて来た。
「今晩は」男は窓から中を覗き込みながら、「実はお前さんに少々話したいことがあるんですがね」とハンタに声をかけたが、その時に手に握っていた小さな紙包の端がチラッと見えたと、後で女中は断言している。
「何用で来なすったのかね?」ハンタは反問した。
「お前さんの儲かる耳よりな話なんだがね。ここにはウェセクス賞杯戦に出る馬が二頭いる――白銀と栗毛と――お前さん確実な予想を教えてくれませんかね、決して悪いようにはしないが。重量の点で、栗毛は八分の五哩で白銀に百ヤードは分があるというんで、馬主筋はみんな栗毛に賭けたというが本当かね?」
「うむ、さては手前は馬の様子を探りに来たスパイだな? よしッ! キングス・パイランドではスパイをどう扱うか見せてやろう」とハンタは叫んで、犬を放しに走った。女中はそのまま家の方へ駈け戻ったが、走りながら振返ってみると、その男は窓から中へ半身を乗り入れるようにしていたという。けれどもそれから一分間後に、ハンタが犬をつれて外へ飛び出して見た時には、もうその男はいなかったので、厩舎のまわりを駈けずりまわって探してみたが、どこにも姿は見えなかった。」[#「」」は底本では欠落]
「ちょっと」
 私はホームズを遮った。
「ハンタは犬をつれて飛び出した時、厩舎の戸締りをしないでおったのかい?」
「素敵! 素敵だ! その点が非常に大切だと思ったから、僕は昨日ダートムアへ電報を打って訊ねてみた。ハンタは出る時鍵をかけたそうだ。そして窓は、人間の入れるほどの大きさはないという。
 ハンタは仲間が食事から帰って来るのを待って、親方の調馬師に事の次第を報告に出かけた。ストレーカはそれをきくとひどく昂奮して、それが何を意味するか分らなかったらしいが、漠然たる不安を感じたらしかった。そして夜の一時に細君がふと眼を覚ましてみると、服を着かけていたという。細君が驚いてその理由《わけ》を訊ねると、馬のことが心配になって眠れないから、厩舎に間違いでもないかを見に行くつもり
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ドイル アーサー・コナン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング