方へ行った。が、五十歩と歩かぬうちにホームズが急に声を挙げたので振り返ってみると、来い来いをやってるので、行ってみると、そこの軟らかい土の上に馬蹄の跡が判然といくつもついていた。ホームズがポケットから蹄鉄を出して当てがってみると、それがぴったり符合した。
「想像力の有難味が分るだろう? グレゴリにはこの素質だけが欠けているんだ。我々が想像力を働かして事件を仮定し、その仮定に従って取調べの歩を進めた結果、その仮定の正しかったことを確めたんだ。さ、行ってみよう」
 私達はじめじめした凹地を越えて、乾いて固い草土を四分の一哩ばかり歩いて行った。と、再び土地の傾斜しているところがあり、そこにも馬蹄の跡があった。また半哩ばかり何んにもなくて、ケープルトンにかなり近くなってからまたまた発見された。それを最初に発見したのはホームズであったが、彼は得意げにそれを指さして見せた。馬蹄の跡に並んで、男の靴あとが明らかに認められたのである。
「これまでは馬だけだったのに!」
 私は思わずに走った。
「その通りさ。今までは馬だけだったんだ。や、や、これはどうだ!」
 人と馬との足跡はそこで急に方向を転じて、キングス・パイランドの方へ向っていたのである。ホームズは呻吟したが、そのままその足跡を追って新らしい方向へ歩き出した。そして、彼はじっと足跡ばかり見て歩いたが、私はふと横の方に眼をやってみると、驚いたことには、少し離れたところに同じ足跡が、再びケープルトンの方へ向っているのを発見した。私がそれを注意すると、ホームズは、
「ワトソン君、お手柄だ! おかげでうんと無駄足をふまされるのが助かった。さ、あの足跡を辿って進もう」
 そこから先きはあまり歩かなくともよかった。足跡はケープルトン調馬場の厩舎の入口に通ずるアスファルト舗装の道路の前でつきていたのである。そこまで歩いて行くと、厩舎から一人の馬丁が飛び出して来た。
「ここは用のない者の来るところじゃねえだよ」
「いや、ちょっとものを伺いたいのだがね」
 ホームズは二本の指をチョッキのポケットへ入れていった。
「明日の朝五時に来たいと思うんだけれど、サイラス・ブラウンさんに会うにはちと早すぎるかね?」
「ようがしょうとも。来さえすれば会えますだ。旦那はいつでも朝は一番に起きるだから。だが、そういえば旦那が出て来ましたぜ。お前さまじかにきいてみなさるがいいだ。はあれ、とんでもねえ、お前さまからお金貰ったことが分れば、たちまちお払い箱だあ。後で――なんなら後でね」
 シャーロック・ホームズがいったん出した半クラウン銀貨をポケットへ納めると、そこへ怖い顔をした年輩の男が、猟用の鞭を振り振り大跨《おおまた》に門から出て来た。
「どうしたんだ、ドウソン? べちゃべちゃと喋らずと、早く仕事を片付けるんだ! そして君達は? 一体何の用があってこんなところへ来たんですい?」
「御主人、ちょっと十分ばかりお話がしたいんですが」
 ホームズはニコニコしていった。
「用もねえのにうろうろしてるような者の相手になってる暇はおれにゃねえな。ここは知らねえ者の来るところじゃねえ。さっさと帰った帰った。帰らねえと犬を嗾《け》しかけるぞ」
 ホームズは上半身を前へ曲げるようにして、調馬師の耳へ何か囁いた。と、ブラウンはぎくりとして、生際《はえぎわ》まで真赤になった。
「嘘だッ! それあとんでもねえ大うそだッ!」
「よろしい! それじゃここで大きな声でそれを証拠立ててみようか? それとも中へ入って客間で静かに話し合いますか?」
「いや、それじゃ中へ入ってもらいましょうか」
 ホームズはニヤリとして、
「ワトソン君、ほんの二三分間で出て来るからね。じゃブラウンさん、お言葉に従って中へ入れてもらいましょうか」
 二三分間といったのが、きっかり二十分はかかった。ホームズがブラウンとつれ立って出て来た時には、夕映《ゆうばえ》は消え去って、四辺《あたり》は灰色の黄昏が迫りかけていた。たった二十分の間に、サイラス・ブラウンの変りようったらなかった。顔の色といったら灰のように蒼ざめ、額には汗の玉を浮べ、手に持つ猟鞭は嵐の中の小枝のようにゆらいでいた。そして横暴で尊大なさっきの態度はどこへやら、まるで主人に仕える忠実な犬のように、ホームズの側でかしこまっている有様だった。
「それではお指図の通りに致します。必ず致しますから」
「必ず間違わないようにしてもらいたい」
 ホームズはブラウンをじろじろ眺めながらいった。
 ブラウンはホームズの視線に威圧されて、ぱちぱちと瞬きをした。
「はいはい、決して間違いは致しません。必ず出します。それからあれは初めから変えておきましょうか、それともまた――」
 ホームズはちょっと考えていたが、急に噴き出して、
「いや、そのままがいい。それについては後で手紙を出そう。もう狡《ず》るいことをするじゃないよ。さもないと――」
「大丈夫です! どうぞ私を信じて下さい」
「当日はあくまでもお前さんのもののように扱ってくれないと困る」
「どうぞ私にお任せ下さい」
「よろしい、安心していよう。では明日手紙を上げるから」
 ホームズはブラウンが震える手をのべて握手を求めたのを構わずに、くるりと向きを代えてそのまま私と一緒にキングス・パイランドの方へ帰って行った。
「サイラス・ブラウンのようなあんな傲慢で臆病で狡猾な三拍子そろった奴を見たことがない」
 ホームズは歩きながらいった。
「じゃ、あの馬を持っていたんだね?」
「初めはつべこべと誤魔化そうとしたから、あの晩、いや朝のあいつの行動を正確に話してやったら、図星を指されたと見えて、とうとう兜を脱いだよ。僕が見ていたとでも思い込んだらしく。君はあの足跡が妙に爪先が角ばっていたのも、ブラウンの穿いていた靴がちょうどそれに適合する形だったのも、無論気がついたろう。そして部下の使用人にはこんなことが出来るものじゃないことも――だから、僕は毎朝あいつが一番に起きる習慣であること、あの朝も早く起きてみると、荒地によその馬がうろうろしているので、出て行ってみたところ驚いたことには、それが白銀号だった――白銀というのは額が真白なところから出た名なんだが、自分が大金を賭けてる馬の唯一の強敵が手に入ったんでびっくりしただろうと、そのことについて委しく話してやった。最初は、キングス・パイランドへつれて行こうとしたが、急に魔がさして、競馬のすむまでかくしておいたらという考えを起し、そっとケープルトンへつれ戻ってかくしておいただろうといってやったもんだから、あいつもとうとう降参して、どうかして自分が罰せられないですむ方法はないかと考えるまでになったんだ」
「だって、あの厩舎はグレゴリ警部が調べたんだろう?」
「馬の扱いもあいつぐらいになると、どうにでもぺてんの利くもんだよ」
「だって君は、ブラウンに馬を預けておいて心配はないのかい? あの馬に傷をつければ、どの点から見てもブラウンの利益になるんだのに」
「安心したまえ。ブラウンは掌中の玉のように馬を大切にするから。少しでも罪を軽くしてもらうには馬を安全にしておくのが、唯一の方法だと、ちゃんと心得ているんだ」
「だが、ロス大佐のあの様子じゃどんなことをしたって、寛大な処置をとりそうもないね」
「この事件は大佐の一存じゃきまらないんだ。僕は自分の思う通りに歩を進めていいように話しておく。そこは警察の役人でない有難さ。君はどう思ったか知らないが、大佐の態度は僕には少々|素気《そっけ》なさすぎた。だから費用は先持ちで、ちょっとばかり面白いことをしてやろうと思うんだ。馬のことは大佐には何んにもいわずにおきたまえ」
「いいとも、君が許すまでは黙ってるよ」
「もっともこんなことはジョン・ストレーカ殺しの犯人問題に比べれば、ごく些細なことだがね」
「じゃ、これからその方に専念するつもりなのか?」
「いいや、夜行列車で一緒にロンドンへ帰ろう」
 ホームズのこの言葉に私はひどく驚かされた。デヴォンシャへ来てまだ二三時間にしかならないのに、これほど素晴しい成功を持って進捗しつつある事件を、すっぱりと見切りをつけてしまおうとする彼の腹が、私には分らなかった。いろいろ訊ねてみたが、彼が黙々として、ストレーカの家へ帰りつくまで一言も発しなかった。帰ってみると、大佐は警部と一緒に客間で待っていた。
「私達は今晩の夜中の汽車でロンドンへ引揚げます」
 ホームズはいった。
「おかげでダートムアの美しい空気を、しばらく呼吸させていただきました」
 これを聞いて警部は呆気にとられ、大佐は唇に冷笑を浮べた。
「では、ストレーカ殺しの犯人は捕まらんと断念されたんですか?」
 ホームズは昂然として、
「非常な困難が横《よこた》わってることは事実です。それにしてもこの火曜日にあなたの馬が競馬に出られることは、相違あるまいと思われます。どうか騎手の御用意をお忘れないように。それから、ストレーカ氏の写真を一枚拝借願いたいと思いますが」
 グレゴリ警部はポケットに持っていた封筒から一枚取出して、ホームズに渡した。
「グレゴリさんは私が欲しいと思うものはいつも先廻りして用意しておいて下さるですね、有難う。ところで、しばらく皆さまにお待ちを願って、女中に二三質問したいことがありますが――」
 ホームズが部屋を出て行くと大佐は露骨にいった。
「ロンドンなんかからわざわざ探偵を呼んでどうも馬鹿を見ちゃった。あの男が来てからこればかりも捗ったことか!」
「少なくとも白銀が競馬に出ることだけはホームズは保証しましたよ」
 私は口を入れた。
「なるほど、その保証はあった」
 大佐は冷笑を浮べて、
「保証よりは馬を早く戻してもらった方がいい」
 私がホームズのために弁明しようとしたところへ、彼は入って来た。
「それでは皆さん、いつでもタヴィストックへお供いたしましょう」
 私達が馬車に乗ろうとすると、一人の若者が扉《ドア》を押えていてくれた。ホームズはつと何か考えついたらしく若者の袖を引いて訊ねた。
「調馬場の柵の中に羊が少しいるようだが、誰が世話するのかね?」
「私がやりますんで」
「近頃何か羊に変ったことはなかったかね?」
「へえ、大したこともございませんが、三頭だけどういうものか跛《ちんば》になりましたんで」
 ホームズはいと満足げだった。ニッコリと笑って、頻りに両手をこすり合せていた。
「大変な想像だよ、ワトソン君、非常に大胆な想像が当ったよ。グレゴリさん、羊の中に妙な病気が流行しているのは、大《おおい》に御注意なさったらいいと思います。じゃ、馭者君やって下さい」
 ロス大佐は依然としてホームズを軽蔑するらしい顔をしていたが、警部はいたく注意を喚起させられたらしかった。
「あなたはそれを重大視されますか?」
 警部はいった。
「極めて重大視します」
「その他何か私の注意すべきことはないでしょうか?」
「あの晩の犬の不思議な行動に御注意なさるといいでしょう」
「犬は全然何もしなかったはずですが」
「そこが不思議な行動だと申すのです」

 それから四日たって私達はウェセクス賞杯争覇戦を見るために、再びウィンチェスタ行の汽車に乗った。約束通りロス大佐は停車場の入口まで来て待っていてくれたので、私達はそのまま大佐の四頭立《よんとうだて》馬車で市はずれの競馬場へ向った。大佐はひどく暗い顔をして、更に元気がなかった。
「私の馬を一向見かけないようですがね」
 大佐はいった。
「ごらんになれば御自分の馬だからお分りになるでしょう」
 ホームズはそういった。
 大佐はムッとして、
「私は二十年来競馬場に出入りしているが、只今のようなお訊ねを受けるのは始めてです。あの馬の純白の額と、斑の前脚とを見れば、子供にだって分ることです」
「賭けはどんな模様です」
「その点だけはどうも妙です。昨日なら十五対一でも売り手があったのに、だんだん差が少くなって、今では三対一でもどうですかな」
「ふむ!」ホームズは独りごちて、
「何か知っ
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