いと思う。
 それ、船長が明かり窓を降りて来るのが聞こえるぞ。それから自分の部屋にはいって錠《じょう》をかけたな。これはまさしく、彼の心がまだ解けない証拠なのだ。それでは、どれ、ペピス爺さんがいつも口癖に言うように、寝るとしようかな。蝋燭ももう燃え倒れようとしている。それに給仕《スチュワード》も寝てしまったから、もう一本蝋燭にありつく望みもないからな――。

       二

 九月十二日、静穏なる好天気。船は依然おなじ位置に在り。すべて風は南西より吹く。但《ただ》し極めて微弱なり。船長は機嫌を直して、朝食の前に私にむかって昨日の失礼を詫《わ》びた。――しかし彼は今なお少しく放心の態《てい》である。その眼にはかの粗暴の色が残っている。これはスコットランドでは「死《デス》」を意味するものである。――少なくともわが機関長は私にむかってそう語った。機関長はわが船員中のケルト人のあいだには、前兆を予言する人として相当の声価を有しているのである。
 冷静な、実際的なこの人種に対して、迷信がかくのごとき勢力を有していたのは、実に不思議である。もし私がみずからそれを観たのでなかったらば、その迷信が非常に拡がっていることを到底《とうてい》信じ得なかったであろう。今度の航海で、迷信はまったく流行してしまった。しまいには私もまた、土曜日に許されるグロッグ酒と適量の鎮静薬と、神経強壮剤とをあわせ用いようかと、心が傾いてくるのを覚えてきた。迷信のまず最初の徴候はこうであった――。
 シェットランドを去って間もなく舵輪《ホイール》にいた水夫たちが、何物かが船を追いかけて、しかも追いつくことが出来ないかのように、船のあとに哀れな叫びと金切り声をあげているのを聞いたと、しばしば繰り返して話したのがそもそも始まりであった。
 この話はその航海が終わるまでつづいた。そうして、海豹《あざらし》漁猟開始期の暗い夜など、水夫らに輪番《りんばん》をさせるには非常に骨が折れたのであった。疑いもなく、水夫らの聞いたのは、舵鎖《ラダー・チェイン》のきしる音か、あるいは通りすがりの海鳥の鳴き声であったろう。わたしはその音を聞くために、いくたびか寝床から連れて行かれたが、なんら不自然なものを聞き分けることは出来なかった。しかし水夫らは、ばかばかしい程《ほど》にそれを信じていて、とうてい議論の余地がないのであった。わたしはかつてこのことを船長に話したところ、彼もまた非常にまじめにこの問題をとったには、私もすくなからず驚かされた。そうして、彼は実際わたしの言ったことについて、著るしく心を掻き乱されたようであった。わたしは、彼が少なくともかかる妄想に対しては超然としているだろうと、当然考えていたからである。
 迷信という問題に就いて、かくのごとく論究した結果、わたしは二等運転士のメースン氏がゆうべ幽霊を見たということ――否《いな》、少なくとも彼自身は見たと言っている事実を知った。何ヵ月もの間、言いふるした、熊とか鯨とかいう、いつも変わらぬ極まり文句のあとで、なにか新らしい会話の種があるのは、まったく気分を新たにするものである。メースンは、この船は何かに取り憑《つ》かれているのだから、もし、どこかほかに行くところさえあれば、一日もこの船などにとどまってはいないのだが、と言っている。
 実際、あの奴《やっこ》さん、ほんとうに怖気《おじけ》がついているのである。そこで、私は今朝あいつを落ち着かせるために、クロラルと臭素カリを少々|服《の》ませてやった。わたしが彼にむかって、おとといの晩、君は特別の望遠鏡を持っていたのだなと冷やかしてやると、奴さんすっかり憤慨していたようであった。そこで、わたしは彼をなだめるつもりで、出来るだけまじめな顔をして、彼の話すところを聴いてやらなければならなかった。彼はその話をまっこうから事実として、得《とく》とくとして物語ったのであった。
 彼の曰《いわ》く――
「僕は夜半直の四点時鐘ごろ(当直《とうちょく》時間は四時間ずつにして、ベルは三十分毎に一つずつ増加して打つのである。よってこれは四点なればあたかも中時間である)船橋《ブリッジ》にいた。夜はまさに真の闇であった。空には何か月の欠けでもあったらしいが、雲がこれを吹きかすめて、遙かの船からははっきりと見ることが出来なかった。あたかもその時、魚銛発射手《もりなげ》のムレアドが船首から船尾へやって来て、右舷船首にあたって奇妙な声がすると報告した。僕は前甲板へ行って、彼と二人で耳をそろえてその声をきくと、ある時は泣き叫ぶ子供のように、またある時は心傷める小娘のようにも聞こえる。僕はこの地方に十七年も来ていたが、いまだかつて海豹《あざらし》が老幼にかかわらず、そんな鳴き声をするのを聞いたためしはない。われわれが船首
前へ 次へ
全15ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ドイル アーサー・コナン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング