たら……そうさ、船員はみんな命を賭けなければならんと思うよ。もっとも、そんなことは、わしにはたいしたことでもないのだ。なぜと言えば、わしにとってはこの世界よりも、あの世のほうが余計に縁がありそうなのだからね。だが、正直のところ君にはお気の毒だ。わしはこの前われわれと一緒に来たアンガス・タイト老人を連れて来ればよかった。あれならたとい死んでも憎まれはしないからな。ところで、君は……君は、いつか結婚したと言ったっけねえ」
「そうです」と、わたしは時計の鎖についている小盒《ロケット》のバネをぱくりとあけて、フロラの小さい写真を差し出して見せた。
「畜生!」と、彼は椅子から飛びあがって、憤怒の余りに顎鬚《あごひげ》を逆立てて叫んだ。「わしにとって、君の幸福がなんだ。わしの眼の前で、君が恋《れん》れんとしているようなそんな写真の女に、わしがなんの係り合いがあるものか」
彼は怒りのあまりに、今にもわたしを撲《う》ち倒しはしまいかとさえ思った。しかも彼はもう一度|罵《ののし》ったあとに、船長室のドアを荒あらしく突きあけて甲板《デッキ》へ飛び出してしまった。
取り残された私は、彼の途方もない乱暴にいささか驚かされた。彼がわたしに対して礼儀を守らず、また親切でなかったのは、この時がまったく初めてのことであった。私はこの文を書きながらも、船長が非常に興奮して、頭の上をあっちこっちと歩きまわっているのを聞くことが出来る。
わたしはこの船長の人物描写をしてみたいと思うが、わたし自身の心のうちの観念が精《せい》ぜいよく考えて見ても、すでに曖昧糢糊《あいまいもこ》たるものであるから、そんなことを書こうなどというのは烏滸《おこ》がましき業《わざ》だと思う。私はこれまで何遍も、船長の人物を説明すべき鍵《かぎ》を握ったと思ったが、いつも彼はさらに新奇なる性格をあらわして私の結論をくつがえし、わたしを失望させるだけであった。おそらく私以外には、誰しもこんな文句に眼をとめようとする者はないであろう。しかも私は一つの心理学的研究として、このニコラス・クレーグ船長の記録を書き残すつもりである。
およそ人の外部に表われたところは、幾分かその内の精神を示すものである。船長は丈《たけ》高く、均整のよく取れた体格で、色のあさ黒い美丈夫である。そうして、不思議に手足を痙攣的に動かす癖がある。これは神経質のせいか、あるいは単に彼のありあまる精力の結果からかもしれぬ。口もとや顔全体の様子はいかにも男らしく決断的であるが、その眼はまがうべくもなしに、その顔の特徴をなしている。二つの眼は漆黒《しっこく》の榛《はしばみ》のようで、鋭い輝きを放っているのは、大胆を示すものだと私は時どきに思うのであるが、それに恐怖の情の著るしく含まれたように、何か別種のものが奇妙にまじっているのであった。大抵の場合には大胆の色がいつも優勢を占めているが、彼が瞑想にふけっているような場合はもちろん、時どきに恐怖の色が深くひろがって、ついにはその容貌全体に新しい性格を生ずるに至るのである。彼はまったく安眠することが出来ない。そうして、夜なかにも彼が何か呶鳴《どな》っているのをよく聞くことがある。しかし船長室はわたしの船室から少し離れているので、彼の言うことははっきりとは分からなかった。
まずこれが彼の性格の一面で、また最も忌《いや》な点である。私がこれを観察したのも、畢竟《ひっきょう》は現在のごとく、彼とわたしとが日《にち》にち極めて密接の間柄にあったからにほかならない。もしそんな密接な関係が私になかったならば、彼は実に愉快な僚友であり、博識でおもしろく、これまで海上生活をした者としては、まことに立派なる海員の一人である。わたしはかの四月のはじめに、解氷のなかで大風《ゲール》に襲われた時、船をあやつった彼の手腕を容易に忘れ得ないであろう。電光のひらめきと風のうなりとの真っ最中に、ブリッジを前後に歩き廻っていたその夜の彼のような、あんな快活な、むしろ愉快そうに嬉嬉《きき》としていたところの彼を、わたしはかつて見たことがない。彼はしばしば私に告げて、死を想像することはむしろ愉快なことだ、もっとも、これは若い者たちに語るのはあまり芳《かん》ばしくないことではあるが――と言っている。
彼は髪も髭《ひげ》もすでに幾分か胡麻塩《ごましお》となっているが、実際はまだ三十を幾つも出ているはずはない。思うにこれは、何かある大きな悲しみが彼をおそって、その全生涯を枯らしてしまったのに相違ない。おそらく私もまた、もし万一わがフロラを失うようなことでもあったら、全くこれと同じ状態におちいることであろう。私は、これが彼女の身の上に関することでなかったなら、あしたに風が北から吹こうが、南から吹こうが、そんなことはちっとも構わな
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