わたしは舷檣に倚《よ》りかかりながら、周囲にひろがっている大氷原に、今しも沈もうとしている太陽の投げる澄明《ちょうめい》な光りを心から感歎して眺めていると、その夢幻の状態から、わたしは間近《まぢか》にきこえる嗄《しゃが》れ声のために突然われにかえった。それと同時に、船長があたりをきょろきょろ見廻しながら降りて来て、わたしのすぐ側に立っているのを見いだした。
 彼は恐れと驚きと、何か喜びの近づいて来るらしい感情とが相争っているような表情で、氷の上を見まもっていた。寒いにもかかわらず、大きい汗のしずくがその額に流れていて、彼が恐ろしく興奮していることが明らかにわかった。その手足は癲癇《てんかん》の発作を今にも起こそうとしている人のように、ぴりぴりと引きつってきた。その口のあたりの相貌はみにくくゆがんで、固くなっていた。
「見たまえ!」と、彼はわたしの手首をとらえて、あえぎながら言った。
 しかし、眼は依然として遠い氷の上にそそぎ、頭は幻影の野を横切って動く何物かを追うかのように、おもむろに地平のあなたに向かって動いていた。
「見たまえ! それ、あすこに人が! 氷丘のあいだに! 今、あっちのうしろから出て来る! 君、あの女が見えるだろう。いや、当然見えなければならん! おお、まだあすこに! わしから逃げて行く。きっと逃げているのだ……ああ、行ってしまった!」
 彼はこの最後の一句を、鬱結《うっけつ》せる苦痛のつぶやきをもって発したのである。
 これはおそらく永久にわたしの記憶から消え去ることはないであろう。彼は縄梯子《なわばしご》に取りすがって、舷檣の頂きに登ろうと努《つと》めた。それはあたかも去りゆくものの最後の一瞥《いちべつ》を得んと望むかのように――。
 しかし、彼の力は足らず、集会室《ホール》の明かり窓によろめき退《しさ》って来て、そこに彼はあえぎ疲れて倚《よ》りかかってしまった。その顔色は蒼白となったので、私はきっと彼が意識を失うものと思って、時を移さずに彼を伴って明かり窓を降りて、船室のソファの上にそのからだを横たえさせた。それから私はその脣《くち》にブランディをつぎ込んだ。幸いにそれが卓効《たくこう》を奏して、蒼白な彼の顔には再び血の気があらわれ、ふるえる手足をようやく落ち着かせるようになった。彼は肘《ひじ》を突いてからだを起こして、あたりを見まわしていたが
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