トレードは一同が入口の方に来る時に受け合った。
「まだ何か仰ることがありますか?」
「いや、一たい君はどう云う罪名にしようと云うんだね?」
「どう云う罪名ですって? それはもちろん、シャーロック・ホームズ氏謀殺未遂事件でしょう、――」
「いやいや、レストレード君、僕はこの事件の中には、一切関わりを持ちたくないんだがね。この特筆大書すべき逮捕の名誉は、すべて君に帰すべきものだ。そうだ、レストレード君、僕は君を衷心から祝福する。君の日頃の幸運に賦《めぐ》まれている、巧妙と大胆とは、彼を見事に逮捕することになったのだ」
「彼をですって? ホームズさん、彼をって一たい誰をです?」
「それこそ誰あろう、――あらゆる捜査を、五里霧中に葬り去らせて[#「去らせて」は底本では「去らせた」]いた、セバスチャン・モラン大佐、――すなわち先月の三十日の夜、レーヌ公園第四百二十七番で、表二階の開いている窓から、柔軟弾を使用した空気銃で、ロナルド・アデイア氏を射殺した、大犯人さ。レストレード君、これがすなわちこの犯人の罪名だよ。さて、それからワトソン君、――もし君が、破れた窓から入る隙間風に我慢が出来るなら、せめて三十分も僕の書斎に上って、一服やってくれたら、また何か一興を供することが出来ると思うんだがね」
 昔馴染の室は、そのミクロフト・ホームズの管理と、ハドソン夫人の行き届いた注意で、全く昔ながらの儘であった。非常にキレイではあったし、また凡ての位置は昔日のままであった。化学実験所や、酸に侵された樅板をはったテーブルもある。それから本棚には、驚異すべき切り抜き帳や、かつてはロンドン市民を熱狂せしめた大事件の参考書が、一ぱい立ち並んでいた。それから図表、バァイオリンケース、パイプ架《かけ》、それから更に波斯《ペルシャ》スリッパー、――……と、それぞれ見まわす目に止まった。室の中には二人の人間が居た、――一人はすなわちハドソン夫人で、私達二人が入って行ったら、目を輝かして歓迎してくれた。それからもう一人は、全く見知らぬ無言役者、――すなわち今夜の大活劇に、最も重要な役目を演じた、私の友人の蝋色の胸像――なるほど実に驚異すべきまでに、その真《まこと》を模写していた。小さな卓台の上に置かれて、ホームズの常に着用する、寛服《ガウン》を着けさせているので、なるほど街路から見れば、理想的に完全な影絵を映していたに相違なかった。
「ハドソン夫人、僕はあなたの最善の注意を、念願していましたよ」
 ホームズは夫人に云った。
「わたしはあなたから云われた通り、膝で歩いてやりましたわ」
「上出来です。あなたは実によくやって下さいました。あなたは弾丸がどこに飛んだか、御覧になりましたか?」
「え、見ましたわ。弾丸はあなたの美しい半身像を、痛ましく損ねたようでございますよ。弾丸は右から頭部を貫通して、後の壁に当って、平べったくなりましたの。わたしはそれを床敷《カーペット》の上から拾ってここにございますわ」
 夫人のさし出した弾丸を、ホームズは私の前にさし示した。
「ワトソン君、君の御覧の通り、柔軟性の弾丸だ。しかしたしかに全く天才だね。まさかこんなものが、空気銃から飛び出て来たものだとは、思わないからね。いやハドソン夫人、実に有難う、衷心から感謝します。あなたの御助力には、満腔の謝意を表明します。さてワトソン君、一つこの昔馴染の椅子に掛けてくれないかね。実は君と大に談じてみたい問題もあるんだが、――」
 ホームズは見すぼらしいフロックコートを脱ぎ捨てて、半身像から例の鼠色の寛服《ガウン》を取って着たので、依然たるシャーロック・ホームズに返った。
「しかしあの老猟師の神経はやはりまだ正確で、また視力も依然鋭いものだね!」
 ホームズは半身像の打ち砕かれた額を検《しら》べながら云った。
「後頭部の中央に正確に的中《あた》り、脳を貫通しているよ。彼は印度《いんど》では第一の名射手であったが、しかしこのロンドンでも、彼の右に出ずる者は、はなはだ少なかろうと思うな。それとも君は誰かきいたことがあるかね?」
「いや、――」
「そうだよ。彼はそれほどに定評者だよ。さてそれからたぶん君は現世紀で最も偉大な頭脳の所有者の一人である、ゼームス・モリアーティ教授の名前を、まだ知らなかったと思うがね。ちょっとその伝記索引を、本棚からとってくれたまえ」
 彼は不精らしく頁《ページ》をくって、椅子に反り返って、葉巻から大きく煙を吐いた。
「M部の蒐集は大したものだよ」
 彼は説明し出した。
「まあモリアーティは云わずもがな、大したものだし、それから毒殺者のモルガンがある。それからあの忌々しいマシュウス。チャリング・クロスの待合室で、俺の左の犬歯をたたき折った奴。それから最後が、吾々の今夜の友人、――」彼は本を渡してくれたので、私は読んだ。
「モラン・セバスチャン大佐、無職。第一ベンガル先発隊に配属したることあり。一八四〇年ロンドンに生る。波斯《ペルシャ》駐在の英国公使たりし、男爵オーガスタス・モランの息。イートンとオックスフォードに学ぶ。ジョッキとアフガンに従軍し、キャラシァブ、シャープール及びカブールに駐屯したる事あり。一八八一年出版の、『西部ヒマラヤの大狩猟』と、一八八四年に出版となった、『大叢林の中の三ヶ月』との二書の著者。住所、コンデュート街。所属倶楽部、英印倶楽部、タンカービル倶楽部、バガテル骨牌倶楽部」
 そしてその余白に、ホームズの達筆で、
「ロンドンで第二の危険人物」
 とある。私は本を返しながら云った。
「これは驚いた。とても立派な軍人の経歴じゃないかね!」
「そうだよ」
 ホームズは更に言葉を続けた。
「ある程度までは、彼も精進してるよ。彼は鉄のような神経の持ち主だ。彼には負傷した人食虎を追跡して、下水溝にまで這い下りたと云う逸話が、今でも印度《いんど》で話題になっているほどなんだよ。木にもある処までは、非常にいい形で伸びて来ながら、急に変な恰好に変化してしもうのがあるが、君、ああしたことはやはり人間の上にもあることなんだね。これは僕の持論なんだが、つまり個性の進展と云うことも要するに、その先祖の一貫した全過程を表現しているもので、また途中で急激に、善悪いずれかの方面に転換するとも、やはり血統の上の、強いある影響が、そうさせるのだと思うよ。つまり云ってみれば、人間と云うものは、それぞれの家庭史の梗概なんだね」
「そうかね、しかしそれはあまりに牽強附会ではないかね」
「はははははははそうか、いや、別に固執もしないがね。何しろモラン大佐は踏み違えたよ。表立った醜聞はなかったにしても、何しろ印度《いんど》は彼の身持ちのためには暑すぎた。彼はロンドンに帰って来ては、いよいよ悪名を流した。しかもこの時、あのモリアーティ教授は、彼を拾って、重要な児分《こぶん》にしたのだがね。モリアーティ教授は、彼によく金をくれ、そして普通の犯罪者などは使えない、ごく高級な仕事の場合にだけ、一二度使ったのだ。そうだ、君はあの一八八七年に、ラウダーに突発した、ステワート夫人の死を知っているだろう、――ね? 知っているね? そうだ、あの事件の底にはこのモランが隠れていたのだが、どうしても証拠を上げることが出来なかったのだ。モリアーテー教授の一党が、解散となった際にも、彼は実によく隠れて、遂に我々は彼を有罪にすることは出来なかった。君はあの僕が君の室を訪ねて、ひどく空気銃を恐れて、神経質に閉めたことのあったのを、知っているだろう。君はあの時僕を妄想者だと思っただろうが、実際僕は、この恐るべき空気銃と、その後には更に畏怖すべき名射手の居ることをよく知っていたので、僕はやはりああせざるを得なかったのだ。われわれがスイッツァランドに居た時に、モリアーティと共に俺達に尾《つ》けたのも彼であるし、またライヘンバッハの滝の断崖で、僕に呪うべき五分間を与えたのも、明かに彼であったからね。
 僕はフランスに滞在中も、もしや彼に尾《つ》けられはしまいかと云うことを警戒するためによく注意して新聞を読んだ。たしかに彼がロンドン内に健在の中《うち》は、僕の生命と云うものは、全く生き甲斐もなく威嚇されたものであった。昼夜の別なく、彼の幻影は僕の眼前に彷彿とする。そしてまた狙われることになると、いつかはチャンスが来ることに相違ない。僕は全く途方に暮れざるを得ないではないかね。僕は彼を見つけ次第、撃つわけにもゆかない。そうすればもちろん、僕は被告席に立たなければならないことはきまった話だ。官憲に訴えてももちろん何の効果のあることでも無い。彼等とて出鱈目《でたらめ》な嫌疑で干渉を入れるわけにもいかないからね。実際、万策つきた形であったが、しかし僕はまた逆に、新らしい犯罪に注目して、彼を逮捕する機会の来ることを待った。そこに来たのが、ロナルド・アデイア氏の死。果然!僕には好機は到来したのだ! これだけの経路を知って、さてなお彼をその真犯人ではないと思うかね? 彼はあの若者と骨牌をやった。それから彼は倶楽部から若者に尾《つ》けて来た。そして開かっていた窓を通して、一弾を狙い放した。この経路には寸分の疑いの余地はない。第一弾丸だけでも、彼の頭に捕蹄《わ》を打つに十分だ。僕はすぐに帰って来たが、早速見張りの者の目に止まってしまった。思うにあの見張りの者は、モラン大佐に通告したであろう。彼は流石に自分の犯罪と、僕の帰還の因果関係を等閑には附さなかった。彼は明かに驚愕した。それで更に僕は考えた。彼は早速僕を打ち取るために邀撃《ようげき》するであろう、――しかもそれにはかの怖るべき殺人兇器を使用するに相違ないと、――それで僕は窓に、鮮かな目標を示してやったのだ。そしてしかも一方警官たちにもいずれ通諜しておいた。話の序《ついで》だがワトソン君、――君もあの場で感づいたに相違ないが、警官はいささかの猶予もなく、やって来たろう。僕は実は、観察に最も都合のよい場所をと思って、あそこを選んだのであったが、何ぞ図らん、彼の仕事場とかち合ってしまったのだ。さてわが親愛なワトソン君、まだ何かこの上にも説明しなければならないことがあるかね?」
「そりゃある、――」
 私は更に彼の説明を求めた。
「君はまだ、モラン大佐が、どうしてロナルド・アデイア氏を殺害したかと云う動機については、一言も触れないではないか」
「ああそうか、しかしワトソン君、これから先はもうどんなに理論的な推理でも、結局は臆測と云わなければならない世界になるんだがね。まあ双方で、解っているだけのことを基本として、仮説を立ててみよう。そしてお互に訂正し合おうじゃないかね」
「君にはもう出来ているだろう?」
「うむ。いやまあ、事実を想定することも、そう至難なことでもないと思うがね。第一、モラン大佐とアデイア青年とは、その仲間の間で、かなりの金を勝ったと云うことは、もう明かになっているのだ。そこで僕が考えるには、モラン大佐はもちろん不正をやっていたに相違なかったのだ。この事は僕は以前から、気がついていたことであった。それでこのアデイア青年殺害の日は、モラン大佐はアデイア青年に、その不正行為を看破されたに相違ない。そこで実によく想像されることは、アデイア青年は、そーっとモラン大佐に、早速倶楽部員たることを辞し、併せて今後は一切骨牌を手にしないと云うことを条件とし、もしこれを容れない場合は、その不正事実を暴露すると嚇したに相違ないことだ。何しろアデイア青年のような若い者に、その親しく知っている、しかもごく年長の者を、現《あらわ》に誹謗すると云うことは考えられないことだからね。まあおそらくはこの想定は大差無いと思う。しかし倶楽部からの除名と云うことは、その骨牌の不正利得で生活しているモラン大佐にとっては、まさしく身の破滅である。そこでモラン大佐は、アデイア青年が、相手の不正行為のために、誤魔化された利得の計算を、正しく計算し直している時に、殺害してしまったのである。アデイア青年がドアに鍵をかけたのは、夫人たちが
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