黄色な顔
THE YELLOW FACE
コナンドイル Conan Doyle
三上於莵吉訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)真《しん》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四千五百|磅《ポンド》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]
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 私は私の仲間の話をしようとすると、我知らず失敗談よりも成功談が多くなる。無論それらの話の中では、私は時によっては登場人物の一人になっているし、でなくても私はいつも深い関心を持たせられているのだが、――しかしこれは何も、私の仲間の名声のためにそうするわけではない。なぜなら事実において、私の仲間の努力と、多種多様な才能とは真《しん》に称讃すべきものではあったけれども、それでもなお、彼の思案に余るような場合があったからだ。ただどうかしてそんな場合にぶつかって私の仲間が失敗したような所では、他《た》の者もまた誰一人成功したものはなく、事件は未解決のまま残されるわけである。けれど時々、ちょっとした機会から、彼がどんな風にしてその真相を誤解したかと云うことが、後から発見されたこともある。私はそんな場合を五つ六つ書き止めておいた。そのうち今ここですぐお話出来るものが二つある。そしてそれはそれらのうちでも一番面白いものである。
 シャーロック・ホームズと云う男は、滅多に、身体を鍛えるために運動などをする男ではなかった。が、彼よりはげしい肉体労働に堪《た》え得る人間はほとんどなかったし、また確かに彼は、彼と同体量の拳闘家としては私の会ったことのある人のうちでは最も優れた拳闘家の一人だった。しかし彼は努力の浪費になるような無益な肉体的労働をちゃんと見分けて、何か職業上の目的のある場合でなくては、決して肉体を使うようなことはなかった。だから彼は絶対に疲れると云うことを知らずに、実に精力絶倫であった。その代り彼は不断からいかなる場合に処しても困らないだけの肉体の力を養っていた。食事は常に出来るだけ貧しいものをとり、厳格に過ぎるくらい簡易な生活振りだった。だが、時々、コカインをのむこと以外には、何も悪いことはしなかった。そのコカインも、事件が簡単すぎたり、また新聞がつまらなかったりして退屈でどうにもしようがないような時だけに、気慰めにのむに過ぎないのであった。
 それは早春のある日のことであったが、彼はノンビリした気持ちで私と公園へ散歩に出かけた。楡《にれ》の木は若芽を吹き出しかけ、栗の木の頂きには若葉が出はじめていた。私たちは、特に話さなければならないような話題もなかったので、碌《ろく》に口もきき会わずに二時間近くブラブラした。そして再びべーカー通りに帰って来たのは、もう五時近くであった。
「壇那さま、お留守にお客さまがお見えになりました」
 と、彼が入口《いりぐち》の戸をあけると、給仕の子供が云った。
 ホームズは非難するかのように私をジロッと見た。
「少し散歩が長すぎたな」
 と云って、それから給仕に向って云った。
「それで、そのお客さまは帰っちまったのか?」
「ええ」
「中へ這入《はい》ってお待ちするようには言わなかったのかね?」
「いえ、中へお通ししたんです」
「どのくらい待ってたのかね」
「三十分ばかり。――でも、大変せっかちな壇那でしてね、ここにいらっしゃる間も始終、歩き廻ったり足踏みをしたりしていらっしゃいました。私、戸の外でお待ちしておりましたもので、よくそれが分りましたよ。けれどもそのうちにとうとう外へ出て来て、「帰って来ないようじゃないか」とおっしゃるんです。ですから私は申し上げました。「ほんのもう少しお待ちになって下さい」って。すると「じゃ、じき戻って来るよ」と云って出ていっておしまいになるんでしょう。それから私、まだいろいろ申上げたんですけれど、でもお引き止め出来ませんでした」
「よしよし、結構結構」
 とホームズは云って、私達は部屋の中に這入った。
「こりゃアちょっと厄介《やくかい》だね、ねえワトソン君。どうもよほどむずかしい事件らしいよ。訪ねて来たと云う男がイライラしていたと云うことから推察しても、重大な事らしいね。――オヤ、テーブルの上にあるパイプは君のじゃないだろう。今来た男が置き忘れていったに違いないな。こりゃよく使いこんである。煙草吸いが琥珀《こはく》と云っているものだが、これはなかなか上等な品だ。僕はそう思うんだが、ホン物の琥珀のパイプが、いくつロンドンにあるかね。なかには、『琥珀の中の蝿』がホン物のしるしだと思っているものもあるようだけれどもしかし贋物《にせもの》の琥珀の中には贋物の蝿を入れとくくらいのことは、商売の常識だからね。――しかしそれはそれとしといて、今来た男はよほど気が顛到《てんとう》していたに違いないな。何しろ大切にしていたに違いないパイプをおき忘れてくくらいなんだから……」
「君にはどうしてそのパイプを大切にしてたってことが分るんだい?」
 と、私はきいた。
「そりゃ分るよ。そのパイプは買った時は七シルリングくらいしたろう。けれど君にも分るようにそれから二度修繕してあるね。一度は木の所を、一度は琥珀の所を。――しかもホラご覧の通り両方とも銀で修繕してあるだろう。だからパイプの値段は買った時より遥かに高くなっているよ。それに人間って奴は、同じ金を払って新しいものを買うより、むしろ修繕したりなんかしたパイプのほうをずっと大切にするものだからね」
「それから?」
 と、私はつづけてきいた。ホームズはそのパイプを手の中でいじくりながら、彼独特の考え深そうな目つきでじっと見詰めていた。がやがてそれをつまみ上げると、ちょうど何かの骨について講議をしている大学の教授がよくやるように、細長い食指《しょくし》でその上を軽くたたいて、言葉を続けた。
「パイプと云うものは実際途法もなく趣味のあるものだからね。――まず懐中時計と靴紐《くつひも》とをぬかすとこのくらい個々の特異性を持ってるものはないだろう。けれど今の場合は、そんなことはどうでもいいんだ。――とにかくこのパイプの持主は、体格の立派な男で、左利きで、歯が丈夫で、身なりに一向かまわない、そしてそんなに倹約して暮す必要のない男だってことは確かだね」
 私の友達はなんでもないような調子でそう云ったが、しかし私には、彼が彼の推理に私が同意したかどうかを見定めるために、じっと私を見詰めるのが分った。
「君は七シルリングのパイプで煙草を吸う男は裕福でなくちゃならないと思うのかね」
 と、私は云った。
「このパイプで吸ってた煙草は一オンス八ペンスするグロスベノウ・ミクスチュアだ」
 ホームズは答えた。
「よし半分の値段の煙草を吸ったとしても、贅沢だ」
「なるほど。それから……?」
「この男は煙草の火をランプやガスでつけてたようだね。その片がわがすっかりコゲて[#「て」は底本では「で」]るのが分るだろう。マッチじゃこんな風にはならないよ。マッチの火じゃパイプのへり[#「へり」に傍点]は焼けないからね。しかしランプではどうしたって穴をこがさずにはつけられないよ。しかもこいつは右側がこげている。そこで僕はこの男が左利きだと推察したんだ。――君のパイプをランプの所へ持ってってみたまえ。右の手でだよ、すると自然にパイプの左側が穴にあたるようになるから。けれどその反対にすると、それと同じようにゃいかないから。つまりこれを始終やってたんだね。――それからこの男は琥珀の所を噛みつぶしている。それは体格のいい勢力家《せいりょくか》がよくやるし、また歯の丈夫な人がよくやることだよ。――オット、奴《やっこ》さんたしかに階段を登って来るらしいぞ、さあこうなるとパイプの詮議立てなんかしているより面白くなるて……」
と云っているとほどなく、私達の部屋の入口が開かれた。そして背の高い若い男が這入って来た。彼は暗い灰色の品《しな》のよい上品な服を着て、褐色の中折帽《なかおれぼう》を手に持っていた。実際はそれより二三年は年をとっていたのだが、私は卅歳《さんじっさい》ぐらいと見当をつけた。
「ごめん下さい」
 と彼は、まごつきながら云った。
「ノックしなければなりませんでしたでしょうか? ――いえ、そりア無論私はノックすべきでした。けれど実は私、少しあわてておりましたもので、どうぞ御勘弁下さい」
 彼は目まいした人がするように手で額の汗を拭いた。そして腰かけると云うよりはむしろ倒れるように椅子に腰をおろした。
「あなたは二晩ほどお休みになりませんね」
 とホームズは彼独特の気安い愛想《あいそう》のよい調子で云った。
「それが労働よりも歓楽よりも一番からだにこたえますよ。――何か私で出来ることがあったらご遠慮なくおっしゃって下さい」
「あなたに相談にのっていただきたいんです。私は途方に暮ているんです。私の生涯は滅茶滅茶《めちゃめちゃ》になろうとしているんです」
「あなたは私を探偵顧問にお雇いになりたいんですか?」
「それだけじゃアありません。世界的な人物のあなたに、――頭のすぐれているあなたに判断していただきたいんです。これからどうすべきか云っていただきたいんです。そうしていただければ私はあなたをおがみます」
 彼は昂奮して口ばたの筋肉をふるわせながら、まるで何かが爆発した時のように鋭い激しい調子でしゃべった。それで私は、彼にとってはしゃべることが非常に苦痛なんで、もう彼の理性では彼の感情を制御しきれなくなっているのだ、と云うことが分った。
「誰にしたって、自分の家庭内のいざこざ[#「いざこざ」に傍点]を他人に話したくはありませんよ。それはデリケートな気持ちの問題です」
 と彼は云った。
「二人の男と関係した人妻の品行の善悪をきめるってえことは、恐ろしいことです。しかもその男と私はまだ会ったことがないんです。それなのにそうしなければならないってことは、恐ろしいことです。私はもうどうしていいか分からなくなってしまいました。私は助けてもらいたいんです」
「ねえ、君。グラント・マンローさん……」
 ホームズは始めた。
「エッ?」
 私達の訪問客は椅子から飛び上《あが》った。そして、
「私の名前をご存じなんですか?」
 と叫んだ。
「だって、あなたは御自分のお名前を匿《か》くしていらっしゃりたいなら、帽子の内側へ名前を書くことをおやめにならなくちゃ、――でなければせめて、話してる相手の人間に、帽子の外側を見せるようにしていらっしゃらなければ駄目ですよ」
 とホームズは笑いながら言った。
「全くの話、この部屋では、私達はずいぶんたくさんな秘密をききましたよ。でも幸いなことに、私達はずいぶん大勢の悩んでいる人々に平和をもたらしてあげました。ですから、たぶん私は、あなたにもそうして上げることが出来ると信じます。けれど、手遅れになるといけませんから、ぐずぐずしないで手取早《てっとりばや》く、正直にあなたの事件をすっかりお話しになってくれませんか」
 私達の訪問客はもう一度、辛《つら》い仕事にぶつかったぞと云わんばかりに、額《ひたい》へ手をやった。私は彼のその動作と表情とから、彼は無口で自制力の強い男だと云うことが分かった。そして胸のうちにまだ一抹の自尊心があって、自分の負った傷をかくしたいと思っているらしいことが分った。しかし彼は手を握りしめて苦しそうな身振りをしたが、やがて急に、束縛から解き放されたようにしゃべり出した。
「事実はこうなんです、ホームズさん」
 彼は云った。
「私は移転して三年になるんですが、その間私たちは、大概の新婚夫婦がそうであるように、お互に深く愛し合って、幸福に暮しておりました。私たちは何一つ違ったところはありませんでした。ただの一所《ひとところ》も、――思想でも、言葉でも、動作でも。――ところが、先週の月曜日以来と云うもの、私たちの間には急に
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