グロリア・スコット号
コナンドイル
三上於莵吉訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)抽斗《ひきだし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五百|噸《とん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
−−

「僕、ここに書類を持ってるんだがね……」
 と、私の友人、シャーロック・ホームズは云った。それは冬のある夜のことで、私たちは火をかこんで腰かけていた。
「ワトソン君、これは君も一読しといていいものだろうと思うんだよ。そら例の『グロリア・スコット』の怪事件なんだが、それからこの手紙は、治安判事のトレヴォが、それを読んで、恐怖のため死んでしまった手紙なんだよ」
 彼は抽斗《ひきだし》から少しよごれた円筒形に巻いたものをとり出し、そのテイプをほどいて、灰色の半截《はんせつ》の紙の上に、ぞんざいな字で書いてある、短い文句の書いてある紙を、私に手渡した。
[#ここから1字下げ]
――ロンドンにおける、計画は、着々として、なされたり。主任、看視者、ハドソンは、蠅捕紙の命令の、すべてを、受くるべく、既に、予告せり、貴下の、雄鳥雉《ゆうちょうきじ》の、逃亡せる、ことを、信ぜられよ。
[#ここで字下げ終わり]
 と、それには書いてあった。
 私がこの不可解な手紙を読み終って顔を上げた時、私は、ホームズがニヤニヤ変な笑い方をしながら、私の顔に浮ぶ表情を眺めているのに気がついた。
「少なからずまごつかされたようだね」
 彼は云った。
「私にはこんな手紙が、どうして恐怖を引き起こしたのかどう考えても分からないね。ただ奇怪だと思われるだけだよ」
「まあ、その通りだ。しかも事実は、それを読んだ男は、その通達書が、まるでピストルの台尻ででもあったかのように、そのためにすっかりたたきのめされてしまったのだ。その男は上品な剛直な老人だったが……」
「面白そうだね」
 私は云った。
「けれどなんだって君は、この事件を研究しておく必要があるなんて云うのかね」
「そりア、これが僕の初めてやった事件だったからさ――」
 私はしばしばホームズから、彼が犯罪捜索の方法において、一番初めにどう云う所へ心をむけるであろうかと云うことについて、ききだそうとしてみたことはあった。けれども今までに、気軽に自分のほうから話してくれる彼に出会ったことはなかった。――彼は肱附き椅子に腰かけたからだを前に乗り出して、膝の上に例の記録をひろげた。それからパイプに火をつけて、しばらくの間煙草をくゆらしながらその頁《ページ》をひっくりかえしていた。
「君は僕がビクター・トレヴォの話をしたのをきいたことがなかったかね?」
 彼はきいた。
「その男は僕が大学にいた二年間に出来た、たった一人の友達だったのだ。僕は決して社交家じゃなかったから、いつもむしろ自分の部屋の中にとじこもって、推理方法の研究を積むことを好んでいた。だから僕は決して自分と同年輩のものとつき合ったことはなかったよ。棒剣術だとかボキシングだとか云うようなものにもほとんど興味がなかったし、従って研究していること柄が、他の連中とは全く違っていて、全然接触する点なんかなかったのだ。しかしそうした中にあって、僕が知り合いになったのはトレヴォだけだったんだ。しかもそれも、ある朝、教会へ出かけて行く途中で、彼のブルテリヤが僕の踝《くるぶし》にかじりついてね、そんな偶然な出来事からだったんだ。
 それは友情なんかの出来る経路としちゃ、殺風景な話だが、しかしそれだけに深かったんだね。――僕は犬にかまれたおかげで十日ばかり寝ちまったのだ。するとトレヴォは始終容態をたずねに来てくれるんだ。それも初めのうちは二三分話して行くにすぎなかったけれど、まもなく長くなって、足が直る頃までには僕たちはすっかり仲よしになっちまったんだ。――トレヴォは真心のある熱情漢で、元気と勢力とに満ち満ちていた。すべての点で僕とは全く反対だった。けれど僕たちは何か共通な所があるような気がした。そして彼もまた私と同じように友達がないのだと云うことが分かった時、それが更に二人を結ぶ絆となったわけだ。――彼はとうとう僕をノルフォーク州のドンニソープにある彼の父親の家に、僕を招待してくれた。そして私は長い休暇に一ヶ月の間、彼の厄介になったものだ。
 彼の父親のトレヴォは、幾らか財産も名誉もある男で、治安判事で地主でもあった。このドンニソープと云う町は、ブロートの田舎、ラングメルの北方にある小さな村なんだ。彼の父の家と云うのは、古風な広い樫の梁をもった煉瓦造りで、玄関までずっ[#「ずっ」に傍点]と、見事なしな[#「しな」に傍点]の木の並木がつづいていた。池の中ではたくさんのあひる[#「あひる」に傍点]が鳴いていたし、見事に育った魚もたくさんいたし、家の中には、私の想像ではたぶん先代から受けついだものだろうと思うのであるが、ちょっとした文庫もあり、お料理も決してまずくはなかった。だからよほど気むずかしい男でない限り、そこで愉快に一ヶ月暮すことは何でもないことだった。
 トレヴォの父親は男やもめで、私の友達は彼の独り息子だったのだ。もっとも私のきいた所によると娘さんが一人あったんだそうだが、バーミングハムへいった時、ジフテリアで死んじまったのだそうだ。――この父親と云う人に、大変、僕は興味を持った。彼は余り学問はしていなかったが、しかし肉体的にも精神的にも素晴らしい原始的な力を持っていた。彼はほとんど、どんな本も読んではいなかったけれど、方々へ旅行し、世界のいろんな所を見聞し、そうして一度見たり聞いたりしたことはみんなちゃんと覚えていた。外見は頑丈な逞しく太った男で、灰色の頭の毛を生えるままにしておいて、日光にやけた赫ら顔で、碧い眼は、狂暴に近くさえ見えるほどに鋭かった。しかも彼はその田舎地方では、慈悲心と親切心とで有名であり、彼の判事席からかける言葉のやさしいことは、周知の所だったのだ。
 僕がそこへいってからまもなくある夕方のこと僕たちはお夕飯後に葡萄酒を飲みながら腰かけていた。と、その時トレヴォの息子は、僕が既に系統立ててあった、僕のこんな探偵的な観察や推理の癖について話しだしたんだ。もっとも僕はその時まだ一度も、それらを実際に応用しためしてみたことはなかったのだけれど。――ところが、老人は明かに、彼の息子が、僕のしたつまらない一つか二つの功績の話を、誇張して話しているんだとでも思ったのだね。
「じゃ、ホームズ君」
 と、彼はニコニコ笑いながら云うんだ。
「私は大事件にぶつかっとるんじゃが、それがどんなことか分かるかね」
「うまく当らないかもしれませんよ」
 と僕は答えた。
「この一年間のあいだ、あなたは誰かに襲われやしないかと云う恐怖をお持ちになっていたと思いますが」
 と、彼の唇からは笑いが消えてなくなり、彼はひどく驚いて僕の顔をじっと見詰めたのだ。
「そうです。その通りです」
 彼は答えた。
「ヴクトウ、お前は知っとるじゃろう」
 と、彼の息子のほうを見ながら
「あの密猟者隊を解散させた時、あいつ等が私を殺ろすと云ったのを。――そうしてエドワード・ホビー君は本当にやられたのじゃ。だから私はそれ以来、常に自分の身を用心しとる。――だが、君はどうしてそれが分かったのかね」
「あなたは実に素晴らしいステッキを持ってらっしゃるじゃありませんか」
 僕は答えた。
「僕はそこにある銘刻を見て、まだそれはあなたがお持ちになって一年とはたたないと思ったのです。だがあなたはそのステッキの頭に穴をおあけになって、それを頑丈な武器にお作りになるため、その穴の中に鉛をおつぎ込みになるには、ずいぶんお骨折りになったでしょう。――そんなわけで、もしあなたが何か身に危険を持っていらっしゃらない限り、そんな御用心をなさるわけはないと思ったのです」
「それからまだほかには?」
 彼は笑いながらきいた。
「あなたはお若い頃に、かなりはげしくボキシングをなさった」
「それも君の云う通りじゃ。――どうしてそれが分かったかね? 私の鼻すじでも少しねじれとるからね?」
「いいえ、そうじゃありません」
 僕は云ったよ。
「あなたのお耳です。それはボキシングをやる人特有の、独特な平たさと薄さとを持っていますよ」
「それからまだほかには?」
「あなたは鉱山で採鉱をかなりなすった。その手のタコ[#「タコ」に傍点]で分かります」
「私は私の財産は金鉱でつくったのです」
「ニュウジーランドにいらしったことがおありでしょう」
「それもその通りじゃ」
「日本へいらしったでしょう」
「行きました」
「それからあなたは、頭文字がJ・Aと云う方と、非常に近しくなすっていらっしゃったでしょう。そうしてその後あなたは、その方のことはほとんどお忘れになっていらしった」
 トレヴォ氏は静かに立ち上って彼の大きな碧い両眼を、不思議そうに僕の上に注いだ。そしてじっと僕を見詰めていた。が、やがて、彼は気が遠くなったもののように、バタと前へのめって、そこに出してあった胡桃《くるみ》の中に顔を突っ込んだ。
 その時、彼の息子と僕とは、どんなにびっくりしたか分かるだろう。ワトソン。――けれどこの激動はまもなくなおった。僕たちが彼のカラーをはずしてコップから水を彼の顔の上にふきかけてやると、一二度呼吸をひいていたが、やがて起き上った。
「ああ、お前たち!」
 彼は無理に笑いながら云った。
「もう大丈夫だから安心して下さい。――私は強そうに見えて、心に弱い所があるのですな。でも、私の命をとるほどではないのです。――ホームズ君、私は君がどうしてこれを推論されたのか知らんのじゃが、しかし君にはこんな事の探偵は、なんでもないことのように私には見えるのう。――あなたはその方面をおやりなさるがよい。そうすればきっとあなたは何かを発見なすって、世界的な人物になれますぞ――」
 そうして実に、ワトソン、この時彼に無暗《むやみ》に私の才能をほめ上げられたことが、それまでは道楽にやっていた仕事を、これは商売になるかなと思わせられるようになった、そもそも最初の原因だったのさ。けれど無論その時は、私はその家の主人の急病で夢中だったから、そんな他のことなどは考える所じゃなかったのだ。
「僕はあなたをこんなにお苦しませするようなことは、何も云うつもりはなかったのです」
 僕は云った。
「いやいや、君はかえって僕をなぐさめてくれているんだよ。――それより、どうして君はそれが分かったか、またどのくらいの程度まで分かってるのか話してくれんかね」
 彼は冗談半分にまぎらせながら云った。けれども彼の眼の蔭には恐怖の色がありありとひそめられていた。
「ごく簡単なんです」
 僕は云った。
「あなたが魚をボートの中に引上げようとして腕をおまくりになった時、僕はあなたの肱の所にJ・Aと刺青《いれずみ》してあるのを見たんです。その字は今でも読めます。けれども字をブルブルさせて分からないようにしてあったり、その字の周囲の皮膚を汚してあったりしてある所から見ると、確かにそれを消してしまおうとなすったことがハッキリ分かります。そこで、それらの頭文字は、かつてはあなたに大変親しい方であったが、後にはそれを忘れようとなすったと云うことが明かになります」
「君は何と云う眼を持ってるんだ」
 と彼は、幾分ホッとしたような溜いきをついて云った。
「君の云う通りじゃ。だが、私はその話をするのはいやじゃ。この世のすべての幽霊の中でも、私の過去の恋の幽霊は最も悪い幽霊じゃ。玉突部屋へ行こう。そしてゆっくり煙草でも吸いながら話そう」
 その日から、トレヴォ氏の私に対する態度は、親切でありながら、その中に何か常に疑惑の目を含ませてあるようになった。彼の息子さえそれを認めたくらいなんだ。
「君は僕の親じの態度をかえさせちまったねえ」
 と彼は云った。
「親じはもう君には何もきかんよ」
 彼はその理由は説明しなかった。しかし私の言葉が、彼
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ドイル アーサー・コナン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング