アッタスン氏はハイドの名を聞いただけでもう心がひるんでいた。がステッキが前に置かれると、もう疑うことができなかった。折れていたんではいるけれども、それは何年も前に彼自身がヘンリー・ジーキルに贈ったステッキであることがわかったのだ。
「そのハイド氏というのは小柄な男ですか?」と彼は尋ねた。
「並外れて小柄で、並外れて人相が悪い、とその女中が言っているのです、」と警官が言った。
アッタスン氏は思案した。それからやがて顔を上げて言った、「僕の馬車で一緒にお出でになれば、その男の家へお連れできると思います。」
この時分には朝の九時頃になっていて、この季節になってから初めての霧が立ちこめていた。大きなチョコレート色の棺衣《かんおおい》のような霧が空一面に垂れ下っていた。しかし風が絶えず、この戦陣を張った水蒸気を、攻めて追い散らしていた。だから、馬車が街から街へとゆらゆら進んでゆく時に、アッタスン氏は、薄明りが濃く淡く驚くほどさまざまな色合いを示しているのを見た。あるところでは夕方遅くのように暗いかと思えば、またあるところでは、大火事か何かの明りのように、濃いもの凄い褐色の輝きがあった。また、あるところでは、一時、霧がすっかり散って、やせ細った一条の日光が渦巻く雲の間からちらりと射し込んでくるのであった。こういう刻々に変ってゆく閃光の下で見る陰気なソホーの区域は、泥だらけの路や、だらしない通行人や、これまでずっと消したことがないのか、それとも、またも襲って来る陰気な暗さにそなえて新たに火を点けたのか、それらの街灯などと共に、弁護士の眼には、悪夢のなかで見るどこかの都会の一地域のように見えた。その上、彼の心に浮かぶ考えも至って憂欝な色を帯びていた。そして、彼が自分の同乗者をちらりと見る時に、正しい人をも時としておそうことのある、法律と、法律の執行者とに対するあの恐怖を、かすかに感じたのであった。
馬車が言いつけた番地の前に停った時、霧が少しはれて、くすんだ街や、けばけばしく飾り立てた酒場や、低級なフランス式料理店や、三文雑誌や安サラダを売る店や、あちこちの家の戸口にむれ集まっているぼろ服を着たたくさんの子供たちや、朝酒を飲みに鍵を手にして出てきたいろんな国々の大ぜいの女たちなどが、彼の眼に映った。それから次の瞬間には、黄土のように茶色の霧が再びそのあたりに下りて、彼をその野卑な周囲からさえぎってしまった。そこがヘンリー・ジーキルのお気に入りの男、正貨二十五万ポンドの相続者である人物の住居なのであった。
象牙のような色の顔をした銀髪の老婦人が入口の戸を開けた。猫をかぶって愛想よくした悪相な顔をしていた。しかし客に対するふるまいは立派だった。彼女は言った。さようでございます、こちらはハイドさんのお宅です。けれども唯今御不在です。昨晩は大そうおそくお戻りでしたが、一時間とたたないうちにまたお出掛けになりました。それは別に珍しいことではありません。あの方はふだんから大変不規則な習慣でして、よくお留守になさいます。現に、昨日お帰りになりましたのもかれこれ二月振りでした、と。
「じゃよろしい、僕たちはあの人の部屋を見たいのだ、」と弁護士が言った。そしてその女がそれはできませんと言いかけると、「この方がどなただかおまえさんに言っておく方がよかろう、」と言い添えた。「これはロンドン警視庁のニューカメン警視さんだ。」
憎ったらしい喜びの色がさっとその女の顔に現われた。「ああ! あの人は挙げられたんですね!」と彼女は言った。「何をしたのでしょう?」
アッタスン氏と警視とはちらりと眼を見合わせた。「あの男はあまり人に受けのいい人物ではないようですな、」と警視が言った。「ではね、お婆さん、僕とこのお方にちょいとそこらを見せて貰いたい。」
その老婦人さえいなければ空家であるその家全体の中で、ハイド氏はたった二室しか使っていなかったが、その二室は贅沢によい趣味で家具を備えつけてあった。戸棚には葡萄酒が一ぱい入っていたし、食器類は銀製だし、テーブルかけも高雅だった。壁には立派な絵が懸っていたが、それは(アッタスンの推測では)なかなかの美術鑑識家であるヘンリー・ジーキルからの贈物であろう。絨毯は幾重にもなった厚いもので、色合いも気持のいいものであった。しかし、この時には、最近にあわててひっかき回したらしい形跡がいろいろあった。衣服はポケットを裏返しにしたまま床《ゆか》のあたりに散らばっていたし、錠の下りるひきだしは開けっ放しになっていたし、炉床には、たくさんの書類を焼いたらしく、黒い灰が山になっていた。その燃え屑の中から、警視は燃え残った緑色の小切手帳の端っこを掘り出した。例のステッキの片方の半分もドアのうしろから見つけ出された。これで彼の嫌疑が確かになったので、警視は喜ばしいと言った。銀行へ行ってみると、数千ポンドの金がその殺人犯人の預金になっていることがわかったので、彼はすっかり満足した。
「もう大丈夫ですよ、」と彼はアッタスン氏に言った。「つかまえたも同然です。奴はよっぽどあわてたに違いありません。でなけりゃ、ステッキを置き忘れたり、とりわけ、小切手帳を焼いたりなんかしなかったでしょう。だって、金はあの男にとっては命ほどに大事なものなんですからね。もう銀行で奴を待っていて、犯人逮捕のビラを出しさえすればいいという訳です。」
しかし、このビラを出すということは、そうたやすくできることではなかった。なぜなら、ハイド氏には懇意な人がほとんどおらず、――例の家政婦でさえ彼には二度会っただけであったし、彼の家族はどこを探しても見当らなかったし、彼は写真をとったこともなかったし、彼の人相を言うことのできる少数の人々も、世間普通の観察者がそうであるように、言うことが各々ひどく違っていた。ただ一つの点でだけ、彼らの言うことは一致していた。それは、その逃亡者が彼を目撃した人たちに言うに言われぬ不具という妙に深い印象を与えたということであった。
手紙の出来事
アッタスン氏がジーキル博士の家の戸口へやっと辿り着いたのは、その日の午後おそくであった。彼はすぐプールに案内されて、台所の傍らを下り、もと庭園であった裏庭をよぎって、実験室とも解剖室ともどっちにも言われている建物へつれて行かれた。博士はこの家をある有名な外科医の相続人から買いとったのであるが、彼自身の趣味は解剖よりもむしろ化学の方だったので、庭園の奥にあるこの一棟の建物の使いみちを変えたのだった。弁護士が彼の友人の邸宅のこの部分に通されたのは初めてであった。で、彼は窓のないくすんだその建物を物珍しそうにじろじろ眺め、階段式になった解剖講堂を通りぬける時にはいやな奇妙な感じであたりを見回した。そこはもとは熱心な学生が一ぱいに詰めかけたものであるが、今ではもの淋しくひっそりしていて、テーブルの上には化学器械が積まれ、床《ゆか》には編みかごが転がり、荷造り用の藁が散らばっており、明りは霧のかかっている円天井からぼんやりと射しこんでいた。その講堂のもっと先に階段があって、それを上ると赤い粗羅紗を張ったドアのところへ来た。そしてこのドアを通って、アッタスン氏はやっと博士の書斎へ迎え入れられた。それは広い部屋で、周囲に硝子戸棚が取りつけられ、いろいろの物の中でも一つの姿見鏡と一つの事務用のテーブルとが備えつけてあり、鉄格子のついた三つの埃だらけの窓が例の路地に面して開いていた。火が炉のなかで燃えていた。ランプが一つ炉棚の上にともして置いてあった。家のなかまでも霧が深く立ちこめ始めたからである。そして、その炉に近く、ジーキル博士がひどく元気のなさそうな顔をして腰かけていた。彼は客を迎えるために立ちあがりもせず、ただ冷たい片手をさし出して、歓待の挨拶をしたが、その声はいつもと変っていた。
「ところで、」とアッタスン氏は、プールが出て行くと直ぐに言った、「君はあの事件のことを聞いたろうね?」
博士は身ぶるいした。「広辻《スクエア》のところで大声で言っていたよ、」と彼は言った。「僕はそれを食堂にいて聞いた。」
「一言《ひとこと》だけ言っておくがね、」と弁護士が言った。「カルーは僕の依頼人だったが、君もやはりそうだ。で、僕は自分のしていることを知っておきたいのだ。君はまさかあの男をかくまうような馬鹿げたことはしないだろうね?」
「アッタスン、僕は神に誓って、」と博士は大声で言った。「神に誓って、もう二度とあの男には会わないつもりだよ。僕は名誉にかけて君に言うが、僕はもうこの世ではあの男と縁を切ったのだ。すっかりすんでしまったのだ。それにまた実際あの男の方でも僕の助力を必要としないのだ。あの男のことは君よりも僕の方がよく知っている。あの男は大丈夫なんだ。全く大丈夫なんだ。よく聞いてくれ給え、あの男はもうこれっきり、決して人の噂になることはないだろうよ。」
弁護士はむずかしい顔をして聴いていた。彼は友人の熱病に罹っているような態度が気に入らなかった。「君はあの男のことには大分自信があるようだが、」と彼が言った。「君のために、どうか君の言う通りであるようにと思うよ。もし裁判にでもなろうものなら、君の名前が出るかも知れんからね。」
「僕はあの男のことには十分自信があるんだ、」とジーキルが答えた。「誰にもうち明けることはできないが、僕には確かに根拠があるんだ。しかし君に助言をして貰えるかも知れないことが一つあるんだがね。僕はそのう――僕は手紙を一通受け取ったのだが、それを警察へ見せたものかどうか迷っているのだ。僕はそれを君の手に任せたいんだよ、アッタスン。君ならきっとうまく判断してくれるだろう。僕は君を非常に信頼しているのだから。」
「その手紙からあの男が見つかるかも知れんと君は心配しているのだね?」と弁護士は尋ねた。
「いや、そうじゃない、」と相手が答えた。「ハイドがどうなろうと僕は別に気にかけちゃいないのだ。僕はあの男とはすっかり縁を切ったのだから。僕はこの忌わしい事件のために自分の評判が幾らか危険に曝されていることを考えていたのだ。」
アッタスンは暫くの間考え込んだ。彼は友人の利己的なのに[#「利己的なのに」は底本では「利己発なのに」]驚いたが、しかしまたそれで安心もした。「では、」と彼はやっと言った。「その手紙を見せて貰おうか。」
その手紙は妙な直立体で書いてあって、「エドワード・ハイド」と署名してあった。それには、筆者《わたくし》は、恩人ジーキル博士から永い間絶大な恩恵を受けながら、それに対して誠に申し訳ない報いをしてきたが、博士はもう私の身の安全については少しも心配される必要がない、私には確実に信頼できる逃亡の手段があるから、という意味のことをごく簡単に書いてあった。弁護士はこの手紙を見て非常に喜んだ。それでみると二人の親交は彼の予想していたよりは美しいもののように思われた。それで彼は今まである疑惑を抱いていたのをすまなく思った。
「この封筒があるかね?」と彼は尋ねた。
「焼いてしまったのだ、つい何の気もなしにね、」とジーキルが答えた。「でもそれには消印はなかったよ。その手紙は手渡しされたのだ。」
「僕にこれを預けて一晩考えさせてくれないか?」とアッタスンが尋ねた。
「君に何もかもそっくり僕のかわりに判断して貰いたいのだ、」というのがその返事であった。「僕は自分に信頼を失ってしまったのだ。」
「では、考えてみよう、」と弁護士が答えた。「ところでもう一言《ひとこと》きくがね。君の遺言書にあの失踪のことについて書かせたのはハイドだったのだね?」
博士は急に気が遠くなりそうな様子であった。彼は口を堅く閉じてうなずいた。
「そうだろうと思っていた、」とアッタスンが言った。「彼は君を殺すつもりだったのだ。君は危いところを助かったのだよ。」
「僕はそれよりはもっとずっと重大な経験をしたのだ、」と博士は重々しい口調で答えた。「僕はある教訓を得たのだ、――おお、アッタスン、何という教訓を僕は得たことだろう!
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