、罰というものは跛をひきながらやって来るものだ。」そして、この考えに嚇かされた弁護士は、しばらく自分自身の過去を考えて、ひょっとして何かの旧悪がびっくり箱のように、いきなり明るみに跳び出してきはしまいかと思って、記憶の隅々までも探ってみた。彼の過去はまず過失のない方だった。彼よりも少ない懸念をもって自分の生涯をふり返ることのできる人は少なかった。それでも彼は自分のなした多くのよくないことを思うと恥ずかしさに堪えなかったが、また、自分が今にもしようとして止めた多くのことを思うと、再び元気づいて厳粛な感謝の念を抱くのであった。それからまた、彼は前の問題にもどって、希望の閃きを心に描いた。「あのハイドという若者もよく調べてみたら、」と彼は思った。「やはり秘密を持っているに違いない。あの男の顔付きから考えれば、さぞ暗い凶悪な秘密をな。それに比べれば可哀そうなジーキルの一番悪い秘密だってお日さまの光みたいなものだろう。このままにうっちゃっておく訳にはゆかない。あんな奴が盗人のようにハリーの枕許へ忍びよることを考えるとぞっとする。可哀そうなハリー、目をさました時にはどんなに怖いだろう! それにまた危険だ。というのは、あのハイドの奴が例の遺言書のあることを感づいたなら、奴は財産を相続するのを待ちかねるようになるかも知れんからな。そうだ、わしは一肌ぬいでやらなければならん、――もしジーキルがわたしにそうさせてさえくれるなら、」と彼は言い足した。「もしジーキルがわたしにそうさせてさえくれるならだ。」するともう一度、彼の心の眼の前に透し絵のようにはっきりと、あの遺言書の奇怪な文句が見えたのである。

     ジーキル博士は全く安らかであった

 それから二週間ほどたつと、大へん好都合にも、博士は五六人の親しい旧友を招いて、いつもの楽しい晩餐会を催した。みんな聡明な、名声ある人々であり、みんなよい酒の味のわかる連中であった。そしてアッタスン氏は、ほかの人々が帰ってしまった後までも自分で居残るように仕向けた。これは何も初めてのことではなく、それまでに何十回もあったことであった。アッタスンは、好かれるところでは、非常に好かれた。彼を招いた人たちは気さくな連中やおしゃべりな連中がとっくに家へ帰ってしまってからも、この無愛想な弁護士をひき留めておくことを好んだ。彼らは、思い切り陽気にはしゃいだ後に、しばらくこの控え目な客と向い合って坐り、この男の貴い沈黙によって淋しさに慣れるようにし、自分の心を冷静に落着かせることを好んだのである。このしきたりには、ジーキル博士も例外ではなかった。で、いま彼が炉をへだてて坐っていると、――大柄な、体の格好のよい、鬚のない五十ばかりの男で、かくれ遊びも多少あるかも知れないが、いかにも才能があり親切そうな人である――その顔付きから見ても彼がアッタスン氏に対して心からの温かい愛情を抱いていることがわかった。
「僕は君に話したいと思っていたのだがね、ジーキル、」とアッタスン氏が切り出した。「君のあの遺言書のことを君は覚えているだろうね?」
 この話題が気に入らぬことは、細かに注意して見る人にはすぐに察しられたであろう。が、博士は快活に受け流した。「気の毒だね、アッタスン、」と彼が言った。「こんな依頼人を持って君は不幸だね。僕の遺言書で、君が困っているほど困っている人間ってのは見たことがないよ。もっとも、あの頑迷な衒学者のラニョンが、彼のいわゆる僕の科学的異端で困っているがね。いや、彼がいい男だということは知ってるさ、――そんなに顔をしかめなくたっていいよ、なかなか立派な男で、僕も彼にはもっと会いたいといつも思っているんだ。しかしそれでもやはり頑迷な衒学者さ。無学な、やかましい衒学者さ。あのラニョンくらい僕を失望させた人間はなかったよ。」
「僕が、あれにはどうしても賛成できないということを、君は知っている筈だ、」とアッタスンは、その新しい話題をあっさり無視して言葉を続けた。
「僕の遺言書のことか? うん、たしかに、覚えている、」とちょっと鋭い調子で博士が言った。「君は僕にそう言ったことがあるよ。」
「では、もう一度そう言うよ、」と弁護士は続けた。「僕はハイドという若者のことが多少わかってきたのでね。」
 ジーキル博士の大きな、立派な顔は唇までも真っ蒼になり、眼のあたりには険しい色があらわれた。「僕はそれ以上聞きたくないのだ、」と彼が言った。「それは我々が言わないことに約束したことだと思うがね。」
「僕の聞いたのは怪しからんことなのだ、」とアッタスンが言った。
「それにしたって同じことだ。君には僕の立場がわからないんだよ、」と博士は何となく辻褄の合わぬような様子で答えた。「僕は苦しい立場にいるんだよ、アッタスン。僕の立場は大変妙な――大変妙な立場なんだ。それは話したってどうにもならないような事情なんだ。」
「ジーキル、」とアッタスンが言った。「君は僕を知っているはずだ。僕は信頼して貰ってもよい人間だ。そのことを内証ですっかりうち明けてくれ給え。そうすれば僕はきっと君をそれから救ってあげられると思うのだ。」
「ねえ、アッタスン、」と博士が言った。「君は実に親切だ。君は全く親切だ。何と言ってお礼を言っていいかわからない。僕は君を十分に信じている。僕はどんな人間よりも君を信頼したいのだ。いや、どっちかと言えば、自分自身よりも君を信頼したいのだ。しかし、全くのところ、あれは君の想像しているようなことじゃないんだよ。そんなにひどいことではないのだ。で、ただ君を安心させるだけのために、一つのことを言ってあげよう。僕はそうしようと思う時にはいつでも、ハイド氏と手を切ることができるのだ。そのことを僕は誓うよ。君には幾重にも感謝する。それから、ちょっと一言《ひとこと》だけ付け加えておきたいんだがね、アッタスン。きっと君はそれを悪くはとらないだろうと思うんだが。それは、このことは一身上の事柄なのだから、どうかうっちゃっておいて貰いたい、ということなんだ。」
 アッタスンは炉火を見ながらしばらく考えていた。
「君の言うことが至極もっともだということは疑わないよ、」とついに彼は言って、立ち上った。
「それはそうとして、我々がこの件に触れたからには、そして触れるのももうこれっきりにしたいものだが、」と博士は続けた。「君に解って貰いたい事が一つあるのだ。僕は可哀そうなハイドのことをほんとうに非常に気にかけているのだ。君があの男に会ったことは僕は知っている。彼が僕にそう言ったから。で彼が不作法なことをしはしなかったかと僕は気遣っている。しかし僕は、実際、心からあの若者のことをひどく、とてもひどく気にかけているんだ。それで、もし僕が死んだら、ねえ、アッタスン。君が彼を我慢してやって彼の権利を彼のために取ってやると、僕に約束してほしいのだがね。もし君がすべてを知ったなら、そうしてくれるだろうと思うのだ。そして、君がその約束をしてくれるなら、僕の心から重荷が下りるのだが。」
「僕はあの男をいつか好きになれそうな風をすることはできないね、」と弁護士が言った。
「僕はそんなことを頼んでいるんじゃないよ、」とジーキルは相手の腕に手をかけながら懇願した。「僕はただ正当な取扱いを頼んでいるだけなんだ。僕がもうこの世にいなくなった時に、僕のために彼の助けになってやって貰いたいと頼んでいるだけなんだよ。」
 アッタスンは抑えきれない溜息をもらした。「よろしい。約束する、」と彼は言った。

     カルー殺害事件

 それから一年近くたった一八――年十月のこと、ロンドン市民は非常に凶暴な犯罪によってうち驚かされ、しかもその被害者の身分が高かったので一そう世間の注意をひいた。そのいきさつは簡単なものではあったが、しかし驚くべきものであった。テムズ河から遠くないある家にひとり住まいをしている女中が、十一時ごろ二階へ寝に行った。夜なか過ぎには霧が全市に立ちこめたが、夜のふけぬうちは雲一つなく、女中のいる家の窓から見下ろす小路は、皎々と満月に照らされていた。彼女はロマンティックな性質だったらしく、窓の直ぐ下に置いてあった自分の箱に腰を下ろして、夢のような物思いに耽り始めたのである。その時ほど(と彼女は、その晩の見聞きしたことを物語るたびにいって涙を流しながら言うのだったが)彼女があらゆる人々と睦まじく感じたこともなく、世間のことを親しみを以て考えたこともなかった。そうして腰をかけている時に、彼女は一人の気品のある白髪の老紳士がその小路をこちらへ近づいて来るのに気がついた。するとまた、この紳士の方へ、ごく小柄な紳士がもう一人やって来たが、これには彼女を初めあまり気にとめなかった。その二人が話を交すことができるところまで(それはちょうど女中の眼の下であった)来たとき、老紳士の方がお辞儀をして、大そう立派なていねいな態度で相手に話しかけた。話をしていることは大して重大なこととは思えなかった。実際、彼が指さしをしていることから察すると、ただ道を尋ねているだけのようにも時々は見えた。しかし、月が、話している人の顔を照らしていて、娘はその顔を眺めるのがたのしかった。その顔はいかにも悪意のない、古風で親切な気質を表わしているように思われたが、しかしまた、正しい理由のある自己満足からくる何となく高ぶったところもあった。そして彼女の眼がもう一人の方にうつると、彼女は、それが、いつか一度自分の主人を訪ねて来たことがあり、自分が嫌な気持のしたハイド氏という男であることがわかって、びっくりした。その男は片手に重いステッキを持っていて、それをいじっていた。が、彼は一言も答えず、じれったくてたまらない様子で聴いているようであった。それから突然、彼はかっと怒り出して、足をどんどん踏みつけ、ステッキを振り回し、まるで狂人のように(女中の言ったところによれば)あばれた。老紳士は、大へん驚いたような、またちょっと感情を害したような様子で、一歩退いた。それを見るとハイド氏はすっかり自制力を失って、老紳士を地面に殴りたおした。そして次の瞬間には、猿のような凶暴さで、被害者を足で踏みにじり、続けさまに打ちのめしたので、骨は音を立てて砕け、体は路上に跳ねとばされた。その光景ともの音の怖ろしさに、女中は気を失ってしまった。
 彼女が我に返って警官を呼びに行った時は二時であった。殺害者はとっくに行ってしまっていた。が、被害者はめちゃくちゃに傷つけられて小路の真ん中に横たわっていた。凶行に用いたステッキは何かの珍しい、大そう丈夫で堅い木のものであったが、あの凶暴で残忍な力を揮ったために真二つに折れていた。そして折れた半分は近くの溝のなかに転げこんでいた。――片方の半分はきっと殺害者が持ち去ったのであろう。財布が一つと金時計一つ、被害者の身に着いていた。が名刺も書類もなく、ただ、封をして切手を貼った封筒が一つあり、彼は恐らくそれを郵便箱へ入れに行くところであったのだろうが、それにはアッタスン氏の住所と名前とが書いてあった。
 この封筒は翌朝、弁護士がまだ寝床を離れぬうちに、彼のところへとどけられた。彼はそれを見、事情をきくと直ぐ、厳粛な顔をして言い出した。「その死体を見た上でなければ何とも申し上げ兼ねます、」と彼は言った。「これは容易ならぬことかも知れません。身支度をする間どうか待って頂きたい。」そしてやはり同じ重々しい顔付きで、急いで朝食をすまし、死体が運ばれている警察署へ馬車を走らせた。その死体のある小室へ入るや否や、彼はうなずいた。「そうです、」と彼は言った。「僕はこの人を知っています。お気の毒ながらこれはダンヴァーズ・カルー卿です。」
「えっ、そりゃほんとうですか?」と警官が大きな声で言った。そして次の瞬間には彼の眼は職業的功名心で輝いた。「これは大変な騒ぎになるだろう、」と彼は言った。「で、あなたにも狂人を捕える助力をして頂けると思いますが。」そして彼は女中の目撃したことを簡単に話し、折れたステッキを示した。
 
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