の憤慨をつのらせたのは、彼がそのハイド氏なる人間については何も知らないためであった。それが今や急に一変して、その人間のことを知っているためとなったのだ。その名前だけ知っていて、それ以上のことを何も知らなかった時でさえ、それはもう十分不都合であった。その名前がかずかずのいやらしい属性をつけ始めるようになっては、ますます不都合となった。そして、それまで永いあいだ彼の眼を遮っていた変りやすい朦朧たる霧の中から、突如として、悪魔の姿がはっきりと躍りでたのである。
「これはきちがい沙汰だと思っていた、」と、彼はそのいやな書類を金庫の元の場所にしまいながら言った。「ところが今度はどうもこれは何かけしからぬことではないかという気がしてきたぞ。」
そう言うと彼は蝋燭を吹き消し、外套を着て、あの医学の牙城といわれるキャヴェンディッシュ広辻《スクエア》の方へと出かけた。そこには、彼の友人である著名なラニョン博士が邸宅を構えていて、群れ集まる患者に接していたのだ。「誰か知っている者があるとすれば、それはラニョンだろう、」と彼は考えたのである。
しかつめらしい召使頭が彼を見知っていて、喜んで迎えた。彼は少しも待たされず、玄関から直ぐに食堂へ案内されると、そこにはラニョン博士がひとりで葡萄酒を飲んでいた。元気で、健康で、快活な、赭ら顔の紳士で、もしゃもしゃした髪の毛はまだそういう歳でもないのに白く、動作は大げさでてきぱきしていた。アッタスン氏を見ると、椅子から跳び立って、両手を差出して歓迎した。この愛想のよさは、この人の癖で、ちょっと芝居じみて見えたが、しかし真心から出ているのであった。というのも、この二人は古くからの友達で、小学校から大学までの同窓であったし、お互いに十分自尊心があると同時に相手を尊敬し、そして、必ずしもそうとは限らぬものだが、お互いに交際することをとても楽しみにしている人たちであったから。
ちょっとした雑談のあとで、弁護士はひどく気にかかっている、例のいやな問題の方へ話を向けて行った。
「ねえ、ラニョン、君と僕とはヘンリー・ジーキルの一番古くからの友達だったね?」と彼は言った。
「その友達もお互いにもっと若かったらね、」とラニョン博士がくすくす笑って言った。「しかし君の言う通りだろうと思う。が、それがどうかしたの? 僕は近ごろとんと彼に会わないよ。」
「なるほど!」
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