には何《なに》も目《め》に着《つ》いたものは無《な》かつたに因《よ》つて――尚《な》ほ此《こ》の上《うへ》か、と最一《もうひと》ツ五階《ごかい》へ上《のぼ》つて見《み》た。様子《やうす》は知《し》れた。』
と頷《うなづ》いて言《い》つた。
『何《なに》が、何者《なにもの》が居《ゐ》るんだ。』と雪枝《ゆきえ》は苛立《いらだ》つて犇《ひし》と詰寄《つめよ》る。
遮《さへぎ》る如《ごと》く斜《しや》に構《かま》へて、
『いや、何《なに》か分《わか》らん、ものは見《み》えん。が、五階《ごかい》へ上《のぼ》り切《き》つて、堅《かた》い畳《たゝみ》の上《うへ》に立《た》つた。冷《つめた》い風《かぜ》が冷《ひや》りと来《く》ると、左《ひだり》の腕《うで》がびくりと動《うご》く、と引立《ひつた》てたやうに、ぐいと上《あが》つて、人指指《ひとさしゆび》がぶる/″\と振《ふる》ふとな、何《なに》かゞ口《くち》を利《き》くと同《おな》じに、其《そ》の心《こゝろ》が耳《みゝ》に通《つう》じた。……
天守《てんしゆ》の主人《あるじ》は、御身《おみ》が内儀《ないぎ》の美艶《あでやか》な色《いろ》に懸想《けさう》したのぢや。理《り》も非《ひ》もない、業《ごふ》の力《ちから》で掴取《つかみと》つて、閨《ねや》近《ちか》く幽閉《おしこ》めた。従類《じうるゐ》眷属《けんぞく》寄《よ》りたかつて、上《あ》げつ下《お》ろしつ為《し》て責《せ》め苛《さいな》む、笞《しもと》の呵責《かしやく》は魔界《まかい》の清涼剤《きつけ》ぢや、静《しづか》に差置《さしお》けば人間《にんげん》は気病《きやみ》で死《し》ぬとな……
言《い》ふまでもない肉《にく》を屠《ほふ》つて其《そ》の血《ち》を啜《すゝ》るに仔細《しさい》はないが、夫《をつと》は香村雪枝《かむらゆきえ》とか。天晴《あつぱ》れ一芸《いちげい》のある効《かひ》に、其《そ》の術《わざ》を以《もつ》て妻《つま》を償《あがな》へ! 魔神《まじん》を慰《なぐさ》め楽《たの》しますものゝ、美女《びじよ》に代《か》へて然《しか》るべきなら立処《たちどころ》に返《かへ》し得《え》さする。――
可《い》いかな、此《こ》の心《こゝろ》は早《は》や御身《おみ》が内儀《ないぎ》に、私《わし》が頼《たの》まれて、御身《おみ》に伝《つた》へた。』
四十
『活《い》けて視《なが》めうと思《おも》ふ花《はな》を、苞《つと》のまゝ室《へや》に寝《ね》かせて置《お》いて、待搆《まちかま》へた償《つくな》ひの彼《かれ》は何《なん》ぢや! 聾《つんぼ》の、唖《をうし》の、明盲人《あきめくら》の、鮫膚《さめはだ》で腰《こし》の立《た》たぬ、針線《はりがね》のやうな縮毛《ちゞれつけ》、人膚《ひとはだ》の留木《とめき》の薫《かをり》の代《かは》りに、屋根板《やねいた》の臭《にほひ》の芬《ぷん》とする、いぢかり股《また》の、腕脛《うですね》の節《ふし》くれ立《た》つた木像女《もくざうをんな》が何《なに》に成《な》る! ……悪《わる》く拳《こぶし》に采《さい》を持《も》たせて、不可思議《ふかしぎ》めいた、神通《じんつう》めいた、何《なに》となく天地《あめつち》の、言《い》ふに言《い》はれぬ心《こゝろ》を籠《こ》めたらしい所業《しわざ》が可笑《をか》しい。笑止千万《せうしせんばん》な大白痴《おほたはけ》!』
『ヌ、』とばかりで、下唇《したくちびる》をぴりゝと噛《か》んで、思《おも》はず掴懸《つかみかゝ》らうとすると、鷹揚《おうやう》に破法衣《やぶれごろも》の袖《そで》を開《ひら》いて、翼《つばさ》の目潰《めつぶし》、黒《くろ》く煽《あふ》つて、
『と、な、……天守《てんしゆ》の主人《あるじ》が言《い》はるゝのぢや……それが何《なに》もない天井《てんじやう》から、此《こ》の指《ゆび》にぶる/\と響《ひゞ》いて聞《き》こえた。』
衝《つ》と、天守《てんしゆ》の棟《むね》を切《き》つて、人指指《ひとさしゆび》を空《そら》に延《の》ばすと、雪枝《ゆきえ》は蒼《あを》く成《な》つて、ばつたり膝支《ひざつ》く。
負《ま》けぬ気《き》の老爺《ぢい》は、前屈《まへこゞ》みに腰《こし》を入《い》れて、
『分《わか》つた、分《わか》つたよ、御坊《ごばう》。お前様《めえさま》が、仏《ほとけ》でも鬼《おに》でも、魔物《まもの》でも、唯《たゞ》の人間《にんげん》の坊様《ばうさま》でも可《え》え。言《い》はつしやる事《こと》は腑《ふ》に落《お》ちた……疾《はや》い話《はなし》が、此《こ》の人《ひと》な持《も》つて行《い》つたは、腹《はら》を出《だ》いた鮒《ふな》だで、美《うつく》しい奥様《おくさま》とは取替《とりか》へぬ。……鰭《ひれ》を立《た》てた魚《うを》を持
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