《いだ》くやうに懸《か》けたと思《おも》ふと、一階目《いつかいめ》の廻廊《くわいらう》めいた板敷《いたじき》へ、ぬい、と上《のぼ》つて其《そ》の外周囲《そとまはり》をぐるりと歩行《ある》いた。……音《おと》に鎗《やり》ヶ|嶽《だけ》と中空《なかぞら》に相聳《あひそび》えて、月《つき》を懸《か》け太陽《ひ》を迎《むか》ふると聞《き》く……此《こ》の建物《たてもの》はさすがに偉大《おほき》い。――朧《おぼろ》の中《なか》に然《さ》ばかり蔓《はびこ》つた牛《うし》の姿《すがた》も、床《ゆか》走《はし》る鼠《ねずみ》のやうに見《み》えた。
ぐるりと一廻《ひとまは》りして、一《いつ》ヶ|所《しよ》、巌《いはほ》を抉《えぐ》つたやうな扉《とびら》へ真黒《まつくろ》に成《な》つて入《はい》つたと思《おも》ふと、一《ひと》つよぢれた向《むか》ふ状《ざま》なる階子《はしご》の中《なか》ほどを、灰色《はいいろ》の背《せ》を畝《うね》つて上《のぼ》る、牛《うし》は斑《まだら》で。
此《こ》の一階目《いつかいめ》の床《ゆか》は、今《いま》過《よぎ》つた野《の》に、扉《とびら》を建《た》てまはしたと見《み》るばかり広《ひろ》かつた。短《みじか》い草《くさ》も処々《ところ/″\》、矢間《やざま》に一《ひと》ツ黄色《きいろ》い月《つき》で、朧《おぼろ》の夜《よ》も同《おな》じやう。
と黒雲《くろくも》を被《かつ》いだ如《ごと》く、牛《うし》の尾《を》が上口《あがりくち》を漏《も》れたのを仰《あふ》いで、上《うへ》の段《だん》、上《うへ》の段《だん》と、両手《りやうて》を先《さき》へ掛《か》けながら、慌《あはたゞ》しく駆上《かけあが》つた。……月《つき》は暗《くら》かつた、矢間《やざま》の外《そと》は森《もり》の下闇《したやみ》で苔《こけ》の香《か》が満《み》ちて居《ゐ》た。……牛《うし》の身躰《からだ》は、早《は》や又《また》段《だん》の上《うへ》へ半《なか》ばを乗越《のりこ》す。
ぐる/\と急《いそ》いで廻《まは》つて取着《とつつ》いて追《お》つて上《のぼ》る。と此《こ》の矢間《やざま》の月《つき》は赤《あか》かつた。魔界《まかい》の色《いろ》であらうと思《おも》ふ。が、猶予《ためら》ふ隙《ひま》もなく直《たゞ》ちに三階目《さんがいめ》を攀《よ》ぢ上《のぼ》る……
最《も》う仰《あふ》いでも覗《のぞ》いても、大牛《おほうし》の形《かたち》は目《め》に留《と》まらなく成《な》つたゝめに、あとは夢中《むちゆう》で、打附《ぶつゝか》れば退《すさ》り、床《ゆか》あれば踏《ふ》み、階子《はしご》あれば上《のぼ》る、其《そ》の何階目《なんかいめ》であつたか分《わか》らぬ。雲《くも》か、靄《もや》か、綿《わた》で包《つゝ》んだやうに凡《およ》そ三抱《みかゝえ》ばかりあらうと思《おも》ふ丸柱《まるばしら》が、白《しろ》く真中《まんなか》にぬつく、と立《た》つ、……と一目《ひとめ》見《み》れば、其《そ》の柱《はしら》の根《ね》に一人《ひとり》悄然《しよんぼり》と立《た》つた婦《をんな》の姿《すがた》……
『お浦《うら》……』と膝《ひざ》を支《つ》いて、摺寄《すりよ》つて緊乎《しつか》と抱《だ》いて、言《い》ふだけの事《こと》を呼吸《いき》も絶々《たえ/″\》に我《われ》を忘《わす》れて※[#「口+堯」、157−12]舌《しやべ》つた。声《こゑ》が籠《こも》つて空《そら》へ響《ひゞ》くか、天井《てんじやう》の上《うへ》――五階《ごかい》のあたりで、多人数《たにんずう》のわや/\もの言《い》ふ声《こゑ》を聞《き》きながら、積日《せきじつ》の辛労《しんらう》と安心《あんしん》した気抜《きぬ》けの所為《せゐ》で、其《その》まゝ前後不覚《ぜんごふかく》と成《な》つた。……
『や』
心着《こゝろづ》く、と雲《くも》を踏《ふ》んでるやうな危《あぶなつ》かしさ。夫婦《ふうふ》が活《い》きて再《ふたゝ》び天日《てんじつ》を仰《あふ》ぐのは、唯《たゞ》無事《ぶじ》に下《した》まで幾階《いくかい》の段《だん》を降《お》りる、其《それ》ばかり、と思《おも》ふと、昨夜《ゆふべ》にも似《に》ず、爪先《つまさき》が震《ふる》ふ、腰《こし》が、がくつく、血《ち》が凍《こほ》つて肉《にく》が硬《こは》ばる。
『気《き》を着《つ》けて、気《き》を着《つ》けて、危《あぶな》い。』と両方《りやうはう》の脚《あし》の指《ゆび》、白《しろ》いのと、男《をとこ》のと、十本《じふぽん》づゝを、ちら/\と一心不乱《いつしんふらん》に瞻《みつ》めながら、恰《あたか》も断崖《だんがい》を下《お》りるやう、天守《てんしゆ》の下《した》は地《ち》が矢《や》の如《ごと》く流《なが》るゝか、と見《み》えた。……
雪枝《
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