沼《ぬま》を裏返《うらがへ》して、空《そら》へ漲《みなぎ》らした夜《よる》の色《いろ》――寝《ね》をびれて戸惑《とまど》ひをしたやうな肥《ふと》つた月《つき》が、田《た》の水《みづ》にも映《うつ》らず、山《やま》の姿《すがた》も照《て》らさず……然《さ》うかと言《い》つて並木《なみき》の松《まつ》に隠《かく》れもせず、谷《たに》の底《そこ》にも落《お》ちないで、ふわりと便《たより》のない処《ところ》に、土器色《かはらけいろ》して、畷《なはて》も畝《あぜ》も茫《ばう》と明《あかる》いのに、粘《ねば》つた、生暖《なまぬる》い小糠雨《こぬかあめ》が、月《つき》の上《うへ》からともなく、下《した》からともなく、しつとりと来《き》て、むら/\と途中《とちゆう》で消《き》える……と髪《かみ》も衣《きもの》も濡《ぬ》れもしないで、湿《しめつ》ぽい。が、手《て》で撫《な》でゝ見《み》ても雫《しづく》は分《わか》らぬ。――雨《あめ》が降《ふ》るのではない、月《つき》が欠伸《あくび》する息《いき》がかゝるのであらう……そんな晩《ばん》には獺《かはをそ》が化《ば》けると言《い》ふが、山国《やまぐに》に其《それ》は相応《ふさ》はぬ。イワナが化《ば》けて坊主《ばうず》になつて、殺生禁断《せつしやうきんだん》の説教《せつけう》に念仏《ねんぶつ》唱《とな》へて辿《たど》りさうな。……
 処《ところ》を、歩行《ある》く途中《とちゆう》、人一人《ひとひとり》にも逢《あ》はなんだ、が逢《あ》へば婦《をんな》でも山猫《やまねこ》でも、皆《みな》坊主《ばうず》の姿《すがた》に見《み》えやうと思《おも》つた。
 こん/\と狐《きつね》が啼《な》いた。……犬《いぬ》の声《こゑ》ではない。唯《と》ある松《まつ》の樹《き》の蔭《かげ》で、つひ通《とほ》りかゝつた足許《あしもと》で。
 こん/\こん/\と啼《な》くのに、フト耳《みゝ》を傾《かたむ》けて、虫《むし》を聞《き》くが如《ごと》く立停《たちどま》ると、何《なに》かものを言《い》ふやうで、
『コンクワイ、クワイ、来《こ》ぬかい、来《こ》ぬかい。』と恁《か》う啼《な》く。
『来《こ》ぬかい、来《こ》ぬかい、来《こ》ぬかい、案山子《かゝし》、来《こ》ぬかい案山子《かゝし》、』と又《また》聞《きこ》える。
 聞《き》く中《うち》に、畝《あぜ》の蔭《かげ》から、ひよいと出《で》て立《た》つた、藁束《わらたば》に竹《たけ》の脚《あし》で、痩《やせ》さらばへたものがある。……凩《こがらし》に吹《ふ》かれぬ前《まへ》に、雪国《ゆきぐに》の雪《ゆき》が不意《ふい》に来《き》て、其《そ》のまゝ焚附《たきつけ》にも成《な》らずに残《のこ》つた、冬《ふゆ》の中《うち》は、真白《まつしろ》な寐床《ねどこ》へ潜《もぐ》つて、立身《たちみ》でぬく/\と過《す》ごしたあとを、草枕《くさまくら》で寐込《ねこ》んで居《ゐ》た、これは飛騨山《ひだやま》の案山子《かゝし》である。
 此《こ》の親仁《おやぢ》、破《やぶ》れ簑《みの》の毛《け》を垂《た》らして、しよぼりとした躰《てい》で、ひよこひよこと動《うご》いて来《き》て、よたりと松《まつ》の幹《みき》へ凭《より》かゝつて、と其処《そこ》へ立《た》つて留《と》まる。
『来《こ》んかい、案山子《かゝし》、来《こ》んかい、案山子《かゝし》………』と例《れい》の声《こゑ》が尚《な》ほ続《つゞ》けて呼《よ》ぶ。
 些《ち》と離《はな》れた畝《あぜ》を伝《つた》つて、向《むか》ふから又《また》一《ひと》つ、ひよい/\と来《き》て、ばさりと頭《かしら》を寄《よ》せて同《おな》じく留《と》まる。と素直《まつすぐ》な畷筋《なはてすぢ》を、別《べつ》に一個《ひとつ》よたよた/\/\と、其《それ》でも小刻《こきざみ》の一本脚《いつぽんあし》、竹《たけ》を早《はや》めて急《いそ》いで近寄《ちかよ》る。
 此《こ》の後《あと》のなんぞは、何処《どこ》で工面《くめん》をしたか、竹《たけ》の小笠《をがさ》を横《よこ》ちよに被《かぶ》つて、仔細《しさい》らしく、其《そ》の笠《かさ》を歩行《あるく》に連《つ》れてぱく/\と上下《うへした》に揺《ゆす》つたもので。
 三個《みつつ》が、……其《それ》から土瓶《どびん》を釣《つ》つて番茶《ばんちや》でも煮《に》さうな形《かたち》に集《あつ》まると、何《なに》かゞ又《また》啼《な》き出《だ》す。
『コー/\/\、急《いそ》がう急《いそ》がう。』
 ばさ/\、と左右《さいう》へ分《わか》れて、前後《あとさき》に入乱《いりみだ》れたが、やがて畷《なはて》へ三個《みつつ》で並《なら》ぶ。
 其時《そのとき》樹《き》の上《うへ》から、何《なに》やら鳥《とり》の声《こゑ》がして、
『何処《どつけ》え行《
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