を喜《よろこ》んだ……勿論《もちろん》、谷《たに》へ分入《わけい》るに就《つ》いて躊躇《ちうちよ》を為《し》たり、恐怖《おそれ》を抱《いだ》いたりするやうな念《ねん》は聊《いさゝか》も無《な》かつた。
と雪枝《ゆきえ》は続《つゞ》いて言《い》つた。
「其《そ》の上《うへ》好奇心《かうきしん》にも駆《か》られたでせう。直《す》ぐにも草鞋《わらぢ》を買《か》はして、と思《おも》つたけれども、彼是《かれこれ》晩方《ばんがた》に成《な》つたから、宿《やど》の主人《あるじ》を強《し》ゐて、途中《とちゆう》まで案内者《あんないしや》を着《つ》けさせることにして、其《そ》の日《ひ》の晩飯《ばんめし》は済《すま》せました。」
双六谷《すごろくだに》へは、翌早朝《よくさうてう》と言《い》ふ意気組《いきぐみ》、今夜《こんや》も二世《にせ》かけた勝敗《しようはい》は無《な》しに、唯《たゞ》睦《むつ》まじいのであらうと思《おも》ふ。宵寐《よひね》をするにも余《あま》り早《はや》い、一風呂《ひとふろ》浴《あ》びた後《あと》……を、ぶらりと二人連《ふたりづれ》で山路《やまみち》へ出《で》て見《み》たのが、丁《ちやう》ど……狐《きつね》の穴《あな》には灯《あかり》は点《つ》かぬが、猿《さる》の店《みせ》には燈《ともしび》の点《つ》く時分《じぶん》、何《なに》となく薄《うす》ら寒《さむ》い、其処等《そこら》の霞《かすみ》も、遠山《とほやま》の雪《ゆき》の影《かげ》が射《さ》すやうで、夕餉《ゆふげ》の煙《けむり》が物寂《ものさび》しう谷《たに》へ落《おち》る。五六軒《ごろくけん》の藁屋《わらや》ならび、中《なか》にも浅間《あさま》な掛小屋《かけこや》のやうな小店《こみせ》を開《あ》けて、穴《あな》から商売《しやうばい》をするやうに婆《ばあ》さんが一人《ひとり》戸《と》の外《そと》を透《す》かして居《ゐ》た。其《そ》の店《みせ》で獣《けもの》の皮《かは》だの、獅子頭《しゝがしら》、狐《きつね》猿《さる》の面《めん》、般若《はんにや》の面《めん》、二升樽《にしやうだる》ぐらゐな座頭《ざとう》の首《くび》、――いや其《それ》が白《しろ》い目《め》をぐるりと剥《む》いて、亀裂《ひゞ》の入《はい》つた壁《かべ》に仰向《あふむ》いた形《かたち》なんぞ余《あんま》り気味《きみ》の可《い》いものではなかつた。誰
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