こゑ》啼《な》かせろ。』
『まだ/\、まだ/\、山《やま》の中《なか》の約束《やくそく》は、人間《にんげん》のやうに間違《まちが》はぬ。今《いま》は未《ま》だ時鳥《ほとゝぎす》の啼《な》く時節《じせつ》で無《な》い。』
『唯《たゞ》姿《すがた》だけ見《み》せれば可《い》い。温泉宿《ゆのやど》の二階《にかい》は高《たか》し。あの欄干《らんかん》から飛込《とびこ》ませろ、……女房《にようばう》は帰《かへ》らぬぞ、女房《にようばう》は帰《かへ》らぬぞ、と羽《はね》で天井《てんじやう》をばさばさ遣《や》らせろ。』
『男《をとこ》は、女《をんな》の魂《たましひ》が時鳥《ほとゝぎす》に成《な》つた夢《ゆめ》を見《み》て、白《しろ》い毛布《けつと》で包《つゝ》んで取《と》らうと血眼《ちまなこ》で追駆《おつか》け回《まは》さう……寐惚面《ねぼけづら》見《み》るやうだ。』
 どつと笑《わら》つて、天守《てんしゆ》の方《はう》へ消《き》えた後《あと》は、颯々《さつ/\》と風《かぜ》に成《な》つた。
 が、田畠野《たばたけの》の空《そら》を、山《やま》の端《は》差《さ》して、何《なん》となく暗《やみ》ながら雲《くも》がむくむくと通《とほ》つて行《ゆ》く。其《そ》の気勢《けはひ》が、やがて昼間《ひるま》見《み》た天守《てんしゆ》の棟《むね》の上《うへ》に着《つ》いた程《ほど》に、ドヽンと凄《すご》い音《おと》がして、足代《あじろ》に乗《の》つた目《め》の下《した》、老人《らうじん》が沈《しづ》めて去《い》つた四《よ》つ手網《であみ》の真中《まんなか》あたりへ、したゝかな物《もの》の落《お》ちた音《おと》。水《みづ》が環《わ》に成《な》つて、颯《さつ》と網《あみ》を乗出《のりだ》して展《ひろ》げた中《なか》へ、天守《てんしゆ》の影《かげ》が、壁《かべ》も仄白《ほのじろ》く見《み》えるまで、三重《さんぢう》あたりを樹《き》の梢《こずゑ》に囲《かこ》まれながら、歴然《あり/\》と映《うつ》つて出《で》た。
 不思議《ふしぎ》や、其《そ》の天守《てんしゆ》の壁《かべ》を透《す》いて、中《なか》に灯《ひ》を点《つ》けたやうに、魚《うを》の形《かたち》した黄色《きいろ》い明《あかり》のひら/\するのが、矢間《やざま》の間《あひ》から、深《ふか》い処《ところ》に横開《よこひら》けで、網《あみ》の目《め》
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