犬《いぬ》よ。』と呼《よ》んだのがある。
 びやう、びやう、うおゝ、うおゝ、うゝ、と遥《はる》かに犬《いぬ》が長吠《ながぼえ》して、可忌《いまは》しく夜陰《やいん》を貫《つらぬ》いたが、瞬《またゝ》く間《ま》に、里《さと》の方《はう》から、風《かぜ》のやうに颯《さつ》と来《き》て、背後《うしろ》から、足代場《あじろば》の上《うへ》に蹲《うづくま》つた――法衣《ころも》の袖《そで》を掠《かす》めて飛《と》んだ、トタンに腥《なまぐさ》い獣《けもの》の香《にほひ》がした。
 水《みづ》の上《うへ》で、わん、わん、と啼《な》く……
『男《をとこ》は知《し》るまい。』
『うゝ、』と犬《いぬ》の声《こゑ》。
『不便《ふびん》な奴《やつ》だ。』
『びやう、』と又《また》啼《な》いた。
 此《こ》の間《あひだ》、ざぶり/\と水《みづ》を懸《か》ける音《おと》が頻《しきり》にした。
『やがて可《い》いか、』
『血《ち》は留《と》まつた。』
『又《また》鞭打《むちう》つて、』
『又《また》洗《あら》はう。』
『やあ、己《おれ》が手《て》、』
『我《わ》が足《あし》、』
『此《こ》の面《つら》に絡《まつ》はるは。』
『水《みづ》に拡《ひろ》がる黒髪《くろかみ》ぢや、』
『山《やま》の婆々《ばゞ》の白髪《しらが》のやうに、すく/\と痛《いた》うは刺《さ》さぬ。』
『蛇《へび》よりは心地《こゝち》よやな。』と次第《しだい》に声《こゑ》が風《かぜ》に乗《の》り行《ゆ》く……

         二十四

 びやう/\と凄《すご》い声《こゑ》で、形《かたち》は見《み》えず、沼《ぬま》の上《うへ》で空《そら》ざまに犬《いぬ》が啼《な》く。
『犬《いぬ》よ、犬《いぬ》よ。』
『おう。』と吠《ほ》えた。
『人間《にんげん》の目《め》には見《み》えぬ……城山《しろやま》の天守《てんしゆ》の上《うへ》に、女《をんな》は梁《うつばり》から釣《つる》して置《お》く、と男《をとこ》に言《い》へ!』
『何《なに》が、彼《あ》の耳《みゝ》へ入《はい》らう。』
『わん、と啼《な》いたら、犬《いぬ》だと思《おも》はう、彼《あ》の痴漢《たわけ》が。』
と嘲《あざけ》る声《こゑ》。傍《かたはら》から老《ふ》けた声《こゑ》して、
『……其《そ》の言附《ことづけ》は、犬《いぬ》では不可《いか》ぬ。時鳥《ほとゝぎす》に一声《ひと
前へ 次へ
全142ページ中68ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング