伺つて二階のお座敷で一時間程先生とお話をした。曙町の藤島さんへ行つたらもう光《ひかる》の帰つた後《のち》であつた。隠居さんの御病気はもう癒《なほ》つて今日《けふ》から起きたと云つておいでになつた。お雛様の前で隠居さんとお話をして居る処《ところ》へ奥様は御馳走を運んでおいでになつた。先生が画室から帰つておいでになつた。紅梅《こうばい》が美くし[#「美くし」は底本では「美しく」]かつた。帰りに画室にお寄りしていろいろの画《ゑ》を見せて貰つた。こんな部屋が欲《ほ》しいなどゝ珈琲《こーひ》を飲みながら思つて居た。壁画《かべゑ》に書いておいでになる桃の花が暖い息を吹いて居るやうにも思つた。弓町の江南さんへも寄つた。二階から降りて来た時秋子さんの片一方の八ツ口から紫の襦袢の袖が皆出て居た。人が道具の中に沈没して居るやうな座敷である。古い原稿紙で障子が張つてあつた。平出さんにも一寸《ちよつと》玄関で用事を云つて帰らうと思つて寄つたが留守だつたから奥様に頼んで置いた。古尾谷《こをたに》さんが私の出た後《あと》へ来て下すつたさうである。某々二氏の土産《みやげ》のお菓子を桃が見せた。光《ひかる》の今日《けふ》描《か》いて来たのは男雛《をとこひな》の画《ゑ》であつた。
 十一日
 床《とこ》を上げたり座敷の掃除をして居るうちに急に今日《けふ》は人並な朝飯《あさはん》を食べて見ようかと云ふ気になつた。オートミルを火に掛けるのを廃《や》めさせて子供と一緒に暖い御飯を食べた。文士の決闘を書いたと云ふ良人《をつと》の原稿はまだ新聞に出て居なかつた。防水剤の話が丁度その欄に載つて居たので読みながら買つて見ようかなどゝ思つた。日々《にち/\》の歌を詠んで万朝報《まんてうはう》の歌を選んだ。昼の白魚の吸物がおいしくなかつた。朝に御飯を食べたせいかも知れない。源氏の原稿を清書して居る処《ところ》へ廣川さんが来た。話しながら私は去年の五月の初めにこの人などと一緒にした旅が頻《しき》りに思ひ出された。煙草《たばこ》をすゝめるとクロノースを二本廣川さんは飲んだ。光《ひかる》と秀《ひいづ》が帰つてから女の子を伴《つ》れて湯屋へ行つた。醜い盲目《めくら》の娘さんが連れの娘さんにおしろいを附けて貰つて居た。帰り途《みち》で、
『母様《かあさん》目の見えない人が居ましたね。』
『あの人のお友達は親切でせう。』
『顔も綺麗な綺麗な人ね、母様《かあさん》。』
 こんな問答を七瀬とした。夕飯《ゆふはん》を済ませて明るいうちに床《とこ》を敷いてしまつた。麟に狐の子供と鳩ぽつぽのお伽噺をして聞かせた。金尾さんが来た。蒲原《かんばら》さんへ行つた帰りださうである。道に迷つて線路の上の脆《もろ》い土の所で落ちようとした時汽車が通つた。浅草の観音様の守つて下すつたのだなどゝ云ふ話をするのであつた。江南さんと秋子さんが来た。結婚届に印を押してくれと云ふことだつたから、良人《をつと》の名や生月《せいげつ》を書いて印を押した。原籍地には大字《おほあざ》から小字《こあざ》まであるのであるから私が覚えて居る筈もない。書附《かきつけ》を見ながら書いたのである。三人が帰ると急に寒い気がしだした。服部|嘉香《よしか》さんへ書く返事を明日《あす》に延《のば》して寝た。
 十二日
 良人《をつと》の手紙が着いた。船に乗る事は万一の時の事にして必ず汽車で来るようにとまた書いて来た。夏の日に熱帯地を通るのは困難でもあらうが顔色が黒くなるだらうと私はそんな事も厭に思つて居る。午後|生田《いくた》さんが見えた。煙草《たばこ》のいろいろあるのを私と同じ程面白がつて飲んで下すつた。良人《をつと》の異父兄の大都城《だいとじやう》さんが修《しう》さんと一緒に来た。二階へ上《あが》つた時今度空いた向ひの小《ちひさ》い家へ移ることを修さんに諷《ふう》された。古尾谷さんに教へて貰つたが今日《けふ》はよく覚えられた。



底本:「文章世界」博文館
   1912(明治45)年4月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。
※底本の総ルビを、パラルビにあらためました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年2月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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