婦人改造の基礎的考察
与謝野晶子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)勢力を振《ふる》っていた
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)今|暫《しばら》く
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)平塚らいてう[#「らいてう」はママ]
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改造ということは最も古くして併せて最も新らしい意味を持っています。人生は歴史以前の悠遠な時代に一たび文化生活の端を開いてこのかた、全く改造に改造を重ねて進転する過程です。男子は巧みにこの過程に乗って、その個性を開展し、幾千年の間に男子本位に傾いた文化生活を築き上げました。とかくこの過程に停滞し落伍する者は女子でした。人生の幼稚な過程に動物的本能がまだ余分に勢力を振《ふる》っていた時代――腕力とそれの延長である武力と、それの変形である権力とが勢力を持っていた時代――では、すべての女性が男性に圧制されて、従属的地位に立たねばならなかったことは、やむをえなかった歴史的事実だともいわれるでしょう。しかしこれがために女子はその人格の発展を非常に鈍らせ、かつ一方に偏せしめてしまいました。それは蜂の女王が生殖機関たることに偏した結果、それ以外には畸形《きけい》的無能力者となったのに喩《たと》えても好いような状態に堕落してしまいました。『時事新報』の一記者が近頃その「財界夜話」の中で引用されたリバアブウル大学副総長の言葉の如く「国家が人民の半分だけを(即ち男子だけを)社会的、経済的、並びに公共的の業務に就かせている限り、強かるべきはずの者(即ち女子)も弱く、富むべきはずの者(即ち女子)も貧しいのだ」という状態になったことは、女子ばかりの不幸でなく、引いて人類全体の不幸であったのです。
今は世界の女子が前後して自覚時代に入りました。今日にいう所の改造は全人類の改造を意味し、これに女子の改造の含まれていることは言うまでもありません。唯だ問題は如何に改造すれば好いかという点から始まります。
この点について、私は初めに「自我発展主義」を以て改造の基礎条件の第一とする者です。人間の個性を予め決定的に一方へ抑圧することなく、それを欲するまま、伸びるまま、堪えるがままに、四方八方へ円満自由に発展させることが自我発展主義です。人間の個性に内具する能力は無限です。一代や二代の研究でその遺伝質が決定されるものでなく、その人の自覚及び努力と、境遇の変化とで、どんなに新しい意外な能力が突発し成長するかも知れません。ラジウムと飛行機との発明を見ただけでも、過去において予測しなかった創造能力を現代人が発揮したことに驚かれます。殊に女子はいまだ開かれざる宝庫です。過去において、その自我発展を沮止《そし》されていただけに、男子本位の文化生活に見ることの出来なかった特異な貢献を齎《もたら》すかも知れません。今日のように非戦論が勢力を持つ時代となっては、男子の腕力に代って、女子の心臓の力が大に役立つことになって行くでしょう。それはいずれにもせよ、私は実にこの新理想的見地から、旧式な良妻賢母主義にも、新しい良妻賢母主義――即ち母性中心主義――にも賛成しない者です。
誤解されないためにいって置きますが、これまでからも私の述べている通り、私は妻たり母たることを決して軽視している者ではなく、私が私の理想の下に行おうとする一切の事は、それが私の自我発展の具体事実としてすべて尊重し、すべて出来る限りの熱愛と、聡明な批判と、慎重な用意とを以てこれを取扱いたいと祈っています。人間の事項には殆ど同時に為し得るものと、為し得ないものと、志が余っていながら境遇その他の事情の許さないものとありますから、おのずから本末前後の関係は生じるのですが、しかしその関係は流動的のものであって、私には固定的に見ることが出来ません。例えば、私自身が大病を煩《わずら》っている場合に、私は先ずその病気を治療することに私の生活の重点を置いて、その他の事はその重点を繞《めぐ》って遠景的に暈影《うんえい》を作るでしょう。数年前に亡くなった友人のH氏は、粟粒《ぞくりゅう》結核菌が大脳を冒して残酷な疼痛《とうつう》を起した時、看護していた奥さんがお子さんの事について何か相談されると、氏は悲痛な声を出して「今は子供のことなんか考えていられない。そんな場合でない。自分の苦痛で俺《おれ》は一ぱいだ。子供には健康がある」といわれました。そうしてH氏は二週間もその苦痛を続けた後に歿《ぼっ》せられたのですが、病院へ見舞に行き合せて氏のその悲痛な言葉を聞いた良人と私とは、一つの厳粛な人間的教訓をH氏から受けたということを感じました。人生はこういう突き詰めた所まで考えねば真剣であるとはいわれないかと思います。親として最愛の子供を思っていられないほどせっぱ詰って目前の小さな自己を抱かねばならない場合もあるのです。人情の真実に徹しない人たちは、このH氏の場合を見て「子の愛の浅い親よ」というでしょう。私はそれに与《く》みすることが出来ません。
H氏の例は極端なようですが、人間は平生誰れでもこれと類似した生活をしているのです。飢えた者は何よりも先ず食物を求めて、その他のことを後廻しにします。儒教では父母のある間は遠方へ旅行しないということを道徳としています。それだからといって、人は食物中心主義とか孝道中心主義とかに一生の重点を決めてしまう訳には行きません。
三月の『婦人公論』を読むと、山田わか子女史は、私が屋外の労働や、屋外の女子参政権運動をしないのを咎《とが》めて、それらの実際運動を他の婦人に盛んに奨励しながら、私自身には常に否定しているといわれましたが、私が屋外の労働に服さないのは、それを避けるのでも否定するのでもなく、私には久しく屋内の労働を持っているからです。私は如何なる婦人に対しても、専ら屋外の労働を盛んに奨励した覚えがありません。それと同時に、私にももし屋内の労働がなくなれば屋外の労働に進んで就きます。私は以前から述べている通り、新聞記者とも、事務員とも、女工ともなることを辞しません。また屋外の政治運動にしても、幼年期の子供をすべて小学へ送るようになれば決して辞するものでないことは、早く私の著書の中に明言しています。
ついでに申し添えます。山田女史は近頃その評論の中で、私に対して頻《しき》りにこういう類の臆断を敢てされるようですが、他人の意見を全部的に評される時には、その人の著書を一通り参照されるだけの用意を持って頂きたいと思います。私が屋外運動をしないということに対し、更に女史が「私は子供が大切で可愛くて、とても家庭を離れる訳にはいかない。けれどお前さんたちはどうでもいいだろう。なぜこぞって屋外労働に従事しないか。なぜ政治運動に飛び出さないかと、晶子《あきこ》氏がいっているように私には思います。そして、何という不人情な事を仰《お》っしゃるだろうと思います」といわれた一節などは、余りに甚だしい無反省な物の言い方でないかと思います。私は母性保護問題について意見を異にしている山田女史とこの上論争する考えを持ちませんが、こういう女史の臆断については女史に対して反問せずにおられません。第一に私が実際運動を「いつも否定している」とは何を証拠にいわれるのでしょうか。次に私は如何なる場合に、すべての婦人にその子女の養育を抛《なげう》ってまで屋外の労働と政治運動とに飛び出すことを奨励したでしょうか。また私の十余年間の著述の何処《どこ》に、婦人に対して「お前さんたちはどうでもいいだろう」というような愛とデリカテとを欠いた「不人情」な気分を持った発言を敢てしたでしょうか。それから「不人情」の一語は何よりも私の全人格を顛覆《てんぷく》せしめるものです。最も同情と礼意のあるべき女子と女子との意見の交換に、女史がこういう言葉を用いられたのは、女史の倫理的意識に省みて疚《やま》しくないだけの御自信があっての事でしょうから、私はそれを立証して頂きたいと思います。あるいはこれは私が「母性の国庫保護説」を主張される女史たちに対して「短見者流」という評語を加えたることに由って憤激されたのかも知れませんが、女史たちの主張が短見であり幻想であることは、一条忠衛氏が本年一月の『六合《りくごう》雑誌』で明晰《めいせき》に論断しておられます。女史たちが一条氏のあの議論をまだ今日まで論破されない限り「短見者流」の評語は不当でないと信じます。
筆が思わず側道へ入りました。山田女史が右のように私を非難されたのは「与謝野晶子もまた家庭が主で、文筆を持っての社会的奉仕は副産物でないか」といって、女史たちの母性中心説へ引付けられるつもりでしょうが、私も時に或事件に対しては――従来も言っているように――家庭を主とする場合があるのは事実です。即ち「妻は病床に臥《ふ》して子は飢に泣く」というような場合、家庭に大病人がある場合、そうして私の現在のように、大家族を擁して、夫妻ともどもそれの物質的供給に追われると共に、今|暫《しばら》く手の離せない幼年期の子供のある場合がそれです。それだからといって、私は「常に家庭を主とする」という考は少しも持っていません。屋外の運動というような行為に対しては屋内の行為の方を主として考えねばならぬ境遇にいますが、文筆を透して実現する私の生活の上には、決して家庭を主としてはいません。例えば私が人類生活について思索している場合には、私は主として人類生活をしているのです。家庭も、国家も、その他の何事も、その時の重点となっている人類生活を取囲んで有機的に繋《つな》がっているのです。私の心理的実証を平明に述ぶればこういう外はありません。私は宗教家たちが四六時中に神や仏を持念するというような事を信じ得ない者です。いわんや女子が常に新良妻賢母主義を中心として生活するなどという事は実際に不可能な事だと思います。言葉を換えていえば、人間は母性と母性的行為とがその全部でなく、母性と交渉しない無限の性能があり、それらの性能が発展した無限の種類の行為があるからです。例えば女子が田の植附をしたり、化学の実験をしたりする場合、それらの行為は少しも母性と関係を持たず、男女の性別を越えて、男子と共に為しつつある事です。それとも母性中心説の支持者は、田を植附ける時にも、試験管を覗《のぞ》く時にも、良妻賢母の意識をはっきりと持たなければならないというのでしょうか。また田を植附けたり、試験管を覗いたりする時の女子の心理をたぐって突き詰めると、それが母性中心説へ達せねば已《や》まないものであるというのでしょうか。
次に私は「文化主義」を以て人間生活の理想とすることを、改造の基礎条件の第二とする者です。自我発展主義だけでは、人間の活動が動物に共通する自然的、受動的、盲目的運動の域から一歩脱して、纔《わず》かに自発的、創造的、有意的活動の端緒に就いたというだけで、まだその目的が一定しないのですが、文化主義の自覚を待って初めて自我発展主義に「眼」もしくは「魂」を入れたということが出来ると思います。
私は文化主義について、さきに阿部次郎《あべじろう》さんの訳述されたリップスの『倫理学の根本問題』から多く啓発せられたのですが、近頃は高田保馬さんと左右田喜一郎《そうだきいちろう》博士の論文とから更にいろいろの教《おしえ》を受けたことを茲《ここ》に感謝します。
文化とは、人間が自発的、創造的、有意的の努力の結果として作り上げた事象の全体をいい、その内容としては、高田さんに従えば「一は吾人の心理的内容及びこれに伴随する動作にして、人為を待ちて成立し、従いて価値を認めらるるもの、宗教、科学、芸術、哲学等より、言語、道徳、法律、習慣、風俗等の内容に及ぶ。他は外界の事務にして、しかも人間の努力を加えられるがために価値を有するに至れるもの、いわゆる経済的財は殆ど皆これに属する。なおこの外に第三の種類として社会組織を挙ぐべきかとも思う」といわれるものがそれです。そうしてこれらの文化内容
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