価値を創造する文化生活の過程は全く労働の過程であると考え、人は心的または体的に労働することに由って初めて自我の発展が出来るのですから、文化生活は労働の所産であり、人間が一様に労働するということを外にして、決して文化主義の生活は成立たないと思うのです。それで私は、すべての人間が労働道徳の実行者となることを望み、現在のように不労所得に由って衣食する階級と、労働の報酬に由って衣食する階級との対抗をなくして、労働者ばかりの社会となることを要求しているのです。(私の近著『心頭雑草』と昨冬の『中外新論』に掲載した私の「資本と労働」の一文とを参照して下さい。)
 最近に出た米田庄太郎《よねだしょうたろう》先生のいくつかの論文を読むと、今日は「労働」と「労働者」との概念が大に拡張されて「手に由りて働く生産者」の外に「脳髄に由って働く生産者」をも労働者と呼ぶ時代となりつつあるという事を教えられます。その上また三月号の『中外』に出た米田先生の論文に由れば、現に露西亜《ロシヤ》の学者ミハイロヴスキイは「人格とは労働の発現である」といい、労働する者のみが人格者と呼び得る者であるという風にいって、労働人格説を唱
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