す。私の心理的実証を平明に述ぶればこういう外はありません。私は宗教家たちが四六時中に神や仏を持念するというような事を信じ得ない者です。いわんや女子が常に新良妻賢母主義を中心として生活するなどという事は実際に不可能な事だと思います。言葉を換えていえば、人間は母性と母性的行為とがその全部でなく、母性と交渉しない無限の性能があり、それらの性能が発展した無限の種類の行為があるからです。例えば女子が田の植附をしたり、化学の実験をしたりする場合、それらの行為は少しも母性と関係を持たず、男女の性別を越えて、男子と共に為しつつある事です。それとも母性中心説の支持者は、田を植附ける時にも、試験管を覗《のぞ》く時にも、良妻賢母の意識をはっきりと持たなければならないというのでしょうか。また田を植附けたり、試験管を覗いたりする時の女子の心理をたぐって突き詰めると、それが母性中心説へ達せねば已《や》まないものであるというのでしょうか。 

 次に私は「文化主義」を以て人間生活の理想とすることを、改造の基礎条件の第二とする者です。自我発展主義だけでは、人間の活動が動物に共通する自然的、受動的、盲目的運動の域から一歩脱して、纔《わず》かに自発的、創造的、有意的活動の端緒に就いたというだけで、まだその目的が一定しないのですが、文化主義の自覚を待って初めて自我発展主義に「眼」もしくは「魂」を入れたということが出来ると思います。
 私は文化主義について、さきに阿部次郎《あべじろう》さんの訳述されたリップスの『倫理学の根本問題』から多く啓発せられたのですが、近頃は高田保馬さんと左右田喜一郎《そうだきいちろう》博士の論文とから更にいろいろの教《おしえ》を受けたことを茲《ここ》に感謝します。
 文化とは、人間が自発的、創造的、有意的の努力の結果として作り上げた事象の全体をいい、その内容としては、高田さんに従えば「一は吾人の心理的内容及びこれに伴随する動作にして、人為を待ちて成立し、従いて価値を認めらるるもの、宗教、科学、芸術、哲学等より、言語、道徳、法律、習慣、風俗等の内容に及ぶ。他は外界の事務にして、しかも人間の努力を加えられるがために価値を有するに至れるもの、いわゆる経済的財は殆ど皆これに属する。なおこの外に第三の種類として社会組織を挙ぐべきかとも思う」といわれるものがそれです。そうしてこれらの文化内容
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