いるかというと、それはどうも曖昧《あいまい》です。やはり在来の習慣に妥協し、また世間普通の主婦がするように時時の流行に従ったりして無反省に日を送って行くという風です。例えばその人たちが子供を育てるにしても、食物や服装などに注意が届くだけで、精神的の教育については自分の意見を基礎にした方針というようなものが決っていません。殊に女の子を育てるには一己の見識がありそうなものですけれど、他の家庭で琴が流行《はや》れば琴を習わせ、舞が流行《はや》れば舞を習わせるという有様です。学校教育の外に幼い時から遊芸を学ばせるという事が好いか悪いか、遊芸というものの将来の価値は如何《いかん》、そういう余技に精力を消費させるということが昔から女子を知識から遠ざからしめた一因になってはいないか、こういう点について深い反省が払われていないのを見ると在来の無知な類型的婦人と異らないことになります。また真剣に子女の教育を思う家庭の婦人なら今の小学初め他の中等程度の学校教育に対して幾多の不満がなければなりませんが、その人たちは学校の為《な》すがままに放任しています。例えば小学で作文を教えるのを見ると、大抵の教師が或題の下に予《あらかじ》めこういう風に作れといって旧套的《きゅうとうてき》な概念を授けて書かせます。それでどの生徒の作った文章もその内容は同じ物で、唯《た》だ文字の末節が少し異るばかり、生徒自身が頭脳を働かせて個性の新味を示した物は殆ど現われておりません。そういう教育法は人間の個性を殺すものですから母たる者は学校に向って抗議するのが当然ですけれど、窃《ひそか》に聡明を以て任じているそれらの新主婦たちは全くこういう事実を等閑に附しております。
私は突飛な、また過激な言動が必ずしも改革者の言動であるとは思いませんが、こういう平穏な、悪くいえば煮え切らない婦人界の進歩的傾向を歯痒《はがゆ》く感じます。
生きたい意欲
ここに私の希望を述べます。私たち日本婦人は遅蒔《おそまき》ながら今こそ一斉に目を覚《さま》して自分自身を反省せねばならない時です。何がために生きているのかを知らずに盲目的な日送りをしていた私たちは何よりも先ず自分の生きて行きたいと望む意欲が人生の基礎であり、その意欲を実現することが人生の目的であることを徹底して知るのが第一です。自己の絶対的尊厳の意味もそれで領解されます。
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