な体質とを持った女は子供も産むがよい、社会的事業にも従事するがよい、その他|能《あた》うかぎり何事に向っても多々益々弁《たたますますべん》じて欲しいと私は思っている。また私はその女の生活として価値が乏しいので避け得られる限り避けた方が好く、そうして避けようとすれば避けることが出来た過度の労働を避けなかったために自分の体力を弱くし、妊娠不能となり、または虚弱不具な子供を生むような女に対しても、同じ理由から不満である。しかし、学者、女権論者、女優、芸術家、教育家、看護婦等に従事している婦人の内の或人たちが、その道とその職業とに忠実であり、熱心であるために結婚を避け、従って母性の権利と義務を履行しないのは、男の側のそれらの道と職業を以て人類の幸福の増加に熱中している人たちの中の或人人が一生|娶《めと》らずかつ父とならないのと同じく、全くその婦人たちの自由に任すべきものであると私には考えられる。そういう婦人たちに対してケイ女史のように一概に「絶対の手前勝手」を以て攻撃するのは酷である。
 もし母性を実現しない女が悉《ことごと》く「絶対の手前勝手」であるなら、前に挙げた不健康その他の理由から結婚を避けしめねばならない女や、良縁を得ないため、または婚資のないために余儀なく独身生活を送る女や、結婚して母たる資格を具備していながら肝腎の子供のない女などをも不徳の婦人として批難せねばならないことになる。それは実際に不合理なことである。そうして現実の世界には性情と境遇を異にした無数の女が存在していて、絶対に母性中心説を適用することの不可能なことがここにも暗示されているように想われる。
 我国の婦人の大多数は盛に子供を生んで毎年六、七十万ずつの人口を増している。あるいは国力に比べて増し過ぎるという議論さえある。私たちはむしろこの多産の事実について厳粛に反省せねばならない時に臨んでいる。旧式な賢母良妻主義に人間の活動を束縛する不自然な母性中心説を加味してこの上人口の増殖を奨励するような軽佻《けいちょう》な流行を見ないようにしたいものである。(一九一六年二月)
[#地より1字上げ](『太陽』一九一六年二月)



底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「人及び女として」天弦堂書房
   1916(大正5)年4月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2003年5月18日修正
青空文庫ファイル:
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