られて従容《しょうよう》として死刑に就《つ》いたようなことは、母性中心説から見れば当然批難せらるべきことであろう。女史は未婚で終り、母性を実現せずに国難に殉じてしまったから。しかし女史自身の最後の微笑は自分の権利と義務を世界人類のために正しく履行したことの満足を示している。女史は人の子を生まなかったけれどもその代りに人道の母となった。女史のこの事蹟に尊敬を惜まない人なら、女の生活として母性のみが絶対に尊厳なものでなく、母性も貴重であるけれども、人間の本務を発揮する尊厳な生活はその外にも無限にあって、それは個人個人の性情と境遇とに由って別別に定まるものであることを私と共に同感せられるであろう。
私は沢山子供を生みかつ育てている。そうして多年の経験から、子供は両親が揃《そろ》っていてこそ完全に育つものであることや、子供を乳母、女中、保姆、里親などに任せるのは太抵の場合両親の罪悪であり、子供の一大不幸であることを切実に感じている。トルストイ翁もケイ女史も何故か特に母性ばかりを子供のために尊重せられるけれど、子供を育てかつ教えるには父性の愛もまた母性の愛と同じ程度に必要である。殊に現在のようにまだ無智な母の多い時代には出来るだけ父性の協力がないと子供の受ける損害は多大である。母親だけが子供を育てることは良人が歿したとか、夫婦が別居しているとかいうやむをえざる事情の外は許しがたいことである。しかしこれくらい自分の子供の教育を重大に考えて取扱っている私さえ、前に述べたように母体としてのみは生きていない。私のように遅鈍な女の上にもそういう生き方を求めるのは甚だしい不自然である。まして無数の異った性情と異った境遇を備えている一切の女を母性中心の型に入れようとする主張は肯定することが出来ないように想われる。
こういっても私は、健康な婦人が良人との間に少くも一人の子供を養い得るだけの経済的自活力を持ちながら、容貌の美を失ったり、産褥《さんじょく》の苦痛に逡巡《しゅんじゅん》したり、性交の快楽を減じたりする理由から妊娠を厭《いと》い、または生児の養育を他人に託するようなことを弁護する者では断じてない。その女の生活が絶対的母性中心から遠ざかっているという根拠からでなく、その女みずからがより好く生きるのに必要な誠実と、聡明と、勇気とを欠いているのが私には不満なからである。豊富な性情と健康
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