それを避けているのであり、あるいは結婚もせず親ともならない方がかえって他の事に由って人間の本務――人類の幸福の増加――をより自由に、より猛烈に実現し得る所以《ゆえん》からわざと夫妻父母の生活を避けているのである。また夫婦生活を開きながら生理的に親となり得ない男女がある。それは親となることを避けているのではないが、余儀なく男は父性から、女は母性から遠ざけられているのである。それらの夫婦は必ずしも不幸を感じていない。子供のないことに由って知らず識らず親としての生活以外に豊富な生活を送っている男女も多い。かえって沢山の子供を持ったために他の活動を侵害せられて、子供のないのを不幸と感じている夫婦よりも幾倍かの不幸に陥っている男女もある。
親となる多数の男女があると共に、前述のように親とならないで一生を送る男女も寡《すくな》くないのが人間の実状である。母性中心説の第二の誤謬はこの実状を看過していることであるように想われる。もし一切の男女が悉《ことごと》く健康で、教育があって、経済的能力を備えていて、夫婦としての堅実な愛が容易に成り立って、自由と幸福の予想せられる境遇が与えられて、夫婦が必ず子供を持つことが出来て、そうして親となることを最上の生活と信じてそればかりを望んでいるなら、男は父性中心の生活を、女は母性中心の生活を営むことに専心し、それを以てケイ女史のいわゆる「生れつきの制限」と自信して父性母性以外の無数無限な人間の活動を第二義とし、方便とし、そうして子供を持つことばかりをケイ女史のように人間の愛の真の目的とすることが出来るであろう。
人生が空想小説でなくて厳粛な目の前の一大事実である限り、人間は一人一人の性情と境遇とに従って各自の生活方針を変化して行かねばならない。トルストイ翁の言われる「天賦の使命」とか、ケイ女史の言われる「個人の権利の生れつきの制限」とかいうようなものが私たちのために、そうして私たちの外に予《あらかじ》め一様に決定されていようとはどうしても考えられない。人間は一人一人の生きて行く必要から一人一人の権利と義務を――生れつきの制限ではなく――各自が個別にその時その時の必要を制限として自由に伸張しながら履行して行く外はないように私には見える。白耳義《ベルギー》の首府の看護婦学校長であった英国婦人エジス・カヴェル女史が去年|独逸《ドイツ》軍のために捕え
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