舞姫
與謝野晶子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蓮歩《れんぽ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)家|七室《ななま》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《らうかん》の
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[#ここから5字下げ]
西の京三本樹のお愛様に
このひと巻をまゐらせ候
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]あき
うたたねの夢路に人の逢ひにこし蓮歩《れんぽ》のあとを思ふ雨かな
美くしき女《をなご》ぬすまむ変化《へんげ》もの来《こ》よとばかりにさうぞきにけり
家|七室《ななま》霧にみなかす初秋《はつあき》を山の素湯《さゆ》めで来《こ》しやまろうど
恋《こ》はるとやすまじきものの物懲《ものごり》にみだれはててし髪にやはあらぬ
船酔《ふなゑひ》はいとわかやかにまろねしぬ旅あきうどと我とのなかに
白百合《しろゆり》のしろき畑のうへわたる青鷺《あをさぎ》づれのをかしき夕《ゆふべ》
わかき日のやむごとなさは王城《わうじやう》のごとしと知りぬ流離《りうり》の国に
歌を見てうつぼ柱に秋雨のつたふやうなる涙の落ちぬ
日輪に礼拝《らいはい》したる獅子王の威とぞたたへむうらわかき君
みさぶらひ御髪《みぐし》に似るは乱菊《らんぎく》と申すと云ひぬ寝《ね》てのみあれば
かざしたる牡丹《ぼたん》火となり海燃えぬ思ひみだるる人の子の夢
われと燃え情火|環《たまき》に身を捲《ま》きぬ心はいづら行方《ゆくへ》知らずも
山々に赤丹《あかに》ぬるなる曙《あけぼの》の童《わらは》が撫でし頬《ほ》と染まりける
花草《はなぐさ》の満地《まんち》に白とむらさきの陣《ぢん》立ててこし秋の風かな
灯《ひ》に遠きうすいろぞめのあえかさの落花に似るを怨女《ゑんにょ》と云ふや
初夏《はつなつ》の玉の洞《ほら》出しほととぎす啼《な》きぬ湖上のあかつきびとに
朝に夜に白檀かをるわが息を吸ひたまふゆゑうつくしき君
木蓮《もくれん》の落花ひろひてみほとけの指とおもひぬ十二の智円《ちゑん》
罪したまへめしひと知ると今日を書き明日《あす》は知らずと日記《にき》する人を
春雨やわがおち髪を巣にあみてそだちし雛《ひな》の鶯の啼《な》く
二もとの橄欖《かんらん》しげる琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《らうかん》の亭の四方を船かよひけり
春の山|懸樋《かけひ》の水のとまりしを昨夜《よべ》の狐とにくみたまひぬ
遠つあふみ大河《たいが》ながるる国なかば菜の花さきぬ富士をあなたに
軒ちかき御座《みざ》よ火《ほ》の気《け》と月光のなかにいざよふ夜の黒髪
松かげの藤ちる雨に山越えて夏花使《なつばなづかひ》野を馳《は》すらむか
廻廊を西へならびぬ騎者たちの三十人は赤丹《あかに》の頬《ほ》して
きぬぎぬや雪の傘する舞ごろもうしろで見よと橋こえてきぬ
高き家《や》に君とのぼれば春の国河|遠白《とほじろ》し朝の鐘なる
長雨や出水《でみづ》の国の人なかば集《つど》へる山に法華経《ほけきやう》よみぬ
夕《ゆふべ》にはちるべき花と見て過ぎぬ親もたぬ子の薄道心《うすだうしん》に
淡色《うすいろ》の牡丹今日ちる時とせず厄日《やくび》と泣きぬ病《や》み僻《ひが》む人
保津川《ほづがは》の水に沿ふなる女松山《めまつやま》幹むらさきに東明《しののめ》するも
萌野《もえの》ゆき紫野ゆく行人《かうじん》に霰《あられ》ふるなりきさらぎの春
二十六きのふを明日とよびかへむ願ひはあれど今日も琴ひく
髪|香《かう》たき錦に爪をつつませておふしたてられ君にとつぎぬ
わが宿の春はあけぼの紫の糸のやうなるをちかたの川
ゆるしたまへ二人を恋ふと君泣くや聖母にあらぬおのれの前に
春いにて夏きにけりと手ふるれば玉はしるなり二十五の絃《いと》
すぐれて恋ひすぐれて君をうとまむともとよう人の云ひしならねど
ふるさとの潮の遠音《とほね》のわが胸にひびくをおぼゆ初夏の雲
天《あめ》とぶにやぶれて何の羽かある夢みであれな病める隼《はやぶさ》
大夏《おほなつ》の近江《あふみ》の国や三井寺《みゐでら》を湖《うみ》へはこぶと八月雲す
われを見れば焔《ほのほ》の少女《をとめ》君みれば君も火なりと涙ながしぬ
梅雨晴《つゆばれ》の日はわか枝《え》こえきらきらとおん髪をこそ青う照りたれ
鶯の餌《ゑ》がひすがたやおもはれし妻は春さく花はやしける
ものいはぬつれなきかたのおん耳を啄木鳥《きつつき》食《は》めとのろふ秋の日
大木曾《おほぎそ》は霧や降るらむはゆま路を駄馬《だうま》ひく子とつれだち給へ
岡の家|瑠璃《るり》すむ秋の空の声たてゝ幾ひら桐おちにけり
ほととぎす山の法師が大音《たいおん》の初夜の陀羅尼《だらに》のこだまする寺
紫と黄いろと白と土橋《つちばし》を小蝶ならびてわたりこしかな
二とせや緞子《どんす》張りたる高椅子のうへに坐《ゐ》るまで児《こ》は丈のびぬ
円山《まるやま》の南の裾の竹原にうぐひす住めり御寺《みてら》に聞けば
たたかひは見じと目とづる白塔《はくたふ》に西日しぐれぬ人死ぬ夕《ゆふべ》
遠《をち》かたに星のながれし道と見し川のみぎはに出でにけるかな
物思へばものみな慵《もの》う転寝《うたたね》に玉の螺鈿《らでん》の枕をするも
壁張や花紋のなかにそちむきの黒髪うつる春の夜の家
春の宵|壬生《みぶ》狂言の役者かとはやせど人はものいはぬかな
比叡《ひえ》の嶺《ね》にうす雪すると粥《かゆ》くれぬ錦織るなるうつくしき人
おとうとはをかしおどけしあかき頬《ほ》に涙ながして笛ならふさま
沙羅双樹《さらさうじゆ》しろき花ちる夕風に人の子おもふ凡下《ぼんげ》のこゝろ
北海の鱒《ます》積みきたる白き帆を鐘楼《しゆろう》に上《のぼ》り見てある少女《をとめ》
五月雨《さつきあめ》春が堕《お》ちたる幽暗の世界のさまに降りつづきけり
春の夜や聖母聖なり人の子の凡慮知らじと盗みに来しや
野社《のやしろ》や榛《はん》の木折れて晩秋の来しと銀杏《いてふ》の葉に吹かれ居る
君にをしふなわすれ草の種まきに来よと云ひなばおどろきて来む
京の衆《しゆ》に初音まゐろと家ごとにうぐひす飼ひぬ愛宕《をたぎ》の郡《こほり》
知恩院《ちおゐん》の鐘が覚《さ》まさぬ人さめぬ扇もとむるわが衣《きぬ》ずれに
あやまちは君を牡丹とのみいはで花に似し子をかぞへけるかな
君は死にき旅にやりきとまろ寝しぬうしろの人よものないひそね
初夏のわか葉のかげによき香する煙草《たばこ》をのむをよろこぶ人と
春そよと風ふく朝はおん墓に桜ちらむとなつかしき父
おもはぬを罪と知る日の君おもひ涙ながれてはてなき日なり
わが知らぬわれ恋ふる子のおもひ寝の来しとゆかしむ琴ききし夢
鳴滝《なるたき》や庭なめらかに椿ちる伯母の御寺のうぐひすのこゑ
六月《みなつき》のおなじ夕に簾《すだれ》しぬ娘かしづく絹屋と木屋と
大堰川《おほゐがは》山は雄松《をまつ》の紺青《こんじやう》とうすき楓《かへで》のありあけ月夜
思ひたまへ御胸《みむね》の島に糧《かて》足らずされど往《い》なれぬながされびとを
君が家《や》につづく河原のなでしこにうす月さして夕《ゆふべ》となりぬ
夏のかぜ山よりきたり三百の牧の若馬耳ふかれけり
香盤《かうばん》に白檀そへて五月雨《さみだれ》の晴間を告げぬさもらひびとは
君まさぬ端居《はしゐ》やあまり数おほき星に夜寒をおぼえけるかな
朝ぼらけ羽《は》ごろも白《じろ》の天《あめ》の子が乱舞するなり八重桜ちる
春の海いま遠《をち》かたの波かげにむつがたりする鰐鮫《わにざめ》おもふ
もゝ色の靄《もや》あたたかく捲く中にちさき花なる我かのこゝち
誰《た》れが子を殯《もがり》におくる銅拍子《どびやうし》ぞ秋の日あびて一列白き
梅の花たき火によばれしら髪をかきたれ来なる隣の君よ
白き羽《は》の幾鳥とべば山頂の雲いざよひぬ秋の湖
仁和寺《にんなぢ》の門跡《もんぜき》観《み》ます花の日と法師幕うつ山ざくらかな
元日や長安《ちやうあん》に似る大道に遣羽子《やりはご》したる袖《そで》とらへけり
羽子板に似たりといはばおこられむやりはごすとて褄《つま》とる人を
ほととぎす水ゆく欄にわれすゑてものの涼しき色めづる君
うらさびしわが家《や》のあとに家《や》つくると青埴《あをはに》盛るを見たるここちに
磯草にこほろぎ啼くや夕月の干潟《ひがた》あゆみぬ人五六人
紫野なでしこ折ると傘たたみ三騎《さんき》の人に顔見られけり
夏まつりよき帯むすび舞姫に似しやを思ふ日のうれしさよ
君を見て昨日《きのふ》に似たる恋しさをおぼえさせずば神よ詛《のろ》はむ
このつかのま悲みの日に伝ふべき甘さと慄《ふる》へ美くしと笑《ゑ》み
髪ながきおんかげ渓《たに》を深う落ち流に浮きぬしろがね色に
高野川河原のかなた松が枝《え》にかはせみ下《お》りぬ知る人の家
ふるき城は立てりしづかに山上のわか葉そよぎの薫《くん》ずる雨に
うすいろを着よと申すや物焚《ものた》きしかをるころものうれしき夕
長月の御苑《ぎよゑん》の朝や露わぶと羅蓋《らがい》してまし白菊の花
うたたねの御枕あまた候《さふら》ふなりかひなも伽羅《きやら》の箱も鼓も
相人《さうにん》よ愛欲せちに面痩《おもや》せて美くしき子に善きことを言へ
牛つれて松明《たいまつ》したる山少女《やまをとめ》湖《うみ》ぞひゆけば家をしへける
春の月縁《ゑん》の揚戸《あげど》の重からば逢はで帰らむ歌うたへ君
あくどしや少し恋しとなす人を撓《たゆ》まず寝《い》ねず思ふと云ひぬ
日は暮れぬ海の上にはむらさきの菖蒲《あやめ》に似たる夕雲のして
たなばたや簾《すだれ》の外《と》なる香炉《かうろう》のけぶりのうへの天の河かな
妹《いも》が間は床の瑪瑙《めなう》の水盤にべにばす咲きぬ七月|七日《しちにち》
ただふたり海の岩草花しろき夜あけに乗りぬ上総《かづさ》の船に
摘みすてし野薔薇ながれぬ夕川の橋の柱にただよひつつも
公孫樹《こうそんじゆ》黄にして立つにふためきて野の霧くだる秋の夕暮
ほととぎす安房下総《あはしもふさ》の海上に七人《ななたり》ききぬ少女子《をとめご》まじり
ゆゑしらずわが病むらしの時わかぬ脈うつ手とり死なむと云ふや
ちぬの浦いさな寄るなるをちかたはひねもす霞《かす》む海恋しけれ
春の里舞ぎぬほさぬ雨の日の柳は白き馬をつながむ
君かへらぬこの家《や》ひと夜に寺とせよ紅梅どもは根こじて放《はふ》れ
かきつばた白と紫くまなして流るる水に鯉の餌かはむ
粧室《けはひや》の鏡に浪《なみ》のうつるなり海の風めで窓あけし家
かもめゐるわたつみ見ればいだかれて飛ぶ日をおもふさいはひ人よ
ゆく春や葛西《かさい》の男|鋏刀《はさみ》して躑躅《つつじ》を切りぬ居丈《ゐだけ》ばかりに
おん舟に居こぞる人の袴《はかま》より赤き紅葉《もみぢ》の島さして来ぬ
燭《しよく》さして赤良小船《あからをぶね》の九つに散り葉のもみぢ積みこそ参れ
大赤城《おほあかぎ》北|上《かみ》つ毛《け》の中空《なかぞら》に聳《そび》やぐ肩を秋のかぜ吹く
春雨の山しづけさよ重なりて小牛まろぶも寝てあれと思ふ
秋の人|銀杏《いてふ》ちるやと岡に来て逢ひにける子と別れて帰る
うつら病む春くれがたやわが母は薬に琴を弾《ひ》けよと云へど
やはらかにぬる夜ねぬ夜を雨しらず鶯まぜてそぼふる三日
夕顔やこよと祈りしみくるまをたそがれに見る夢ごこちかな
薬草の芽をふく伯父の草庵《さうあん》に琴ひく人を訪《と》へと思ふ日
ふたたびは寝釈迦《ねじやか》に似たるみかたちを釘する箱に見む日さへ無き(父君の日に)
牡丹うゑ君まつ家と金字《きんじ》して門《かど》に書きたる
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