をか》しく思つて居た。同室の人は是も頼んであつたボオイに起されて夜明の四時頃に降りて行つた。莫斯科のグルクスの停車場には朝鮮人の朴氏《ぼくし》が來て居て呉れた。電報で頼んで置いたから領事館に來て居た私宛の手紙を持つて居た。此處からビレスト停車場へ行つて其處で乘替をするのである。切符の増金は二十五圓五十五錢で好いと云ふ事である。聞いたのよりも十五圓程少いのを氣にしながら朴氏と馬車に乘つて街へ出た。道路は東京より惡い樣な處もある。浦潮斯徳程ではないが馬車から落ち相な氣がしないでもない。ブラゴウエスチエンスキイ寺院の暗い中に灯の幽に點つた石の廊下を踏んで、本堂の鐵の扉の間から遠い處の血の色で隈取られた樣な壁畫を透かして眺めた。モスコオ河の上に脅かす樣に建てられた冬宮《とうきゆう》も女の心には唯哀を誘ふ一つの物として見るに過ぎない。白い宮殿の三層目の左から二つ目の窓掛が人氣のあるらしく動いて居た。宗教畫に彩どられた高い門を潛つて賑な街へ出た。朴氏は勸工場へ私を伴れて行つたが、私は汽車賃が何れ又追加される樣な氣がして莫斯科の記念の品も買ふ氣にはなれなかつた。領事館は十時でないと人が來て居ないと云ふので、私は花岡、石田二氏への言傳を朴氏に頼んで復汽車に乘つた。椅子が一つあつて室毎に化粧室が備はつて居るだけで、歐羅巴で最も贅澤だと云はれるノオルドの汽車も其程有難い物とも思はれない。十一時前に發車した。ボオイが來て明日アレキサンドロ※[#濁点付き片仮名ヲ、1−7−85]ウでもう三圓三十五錢拂へと云つた。未だ追加を後から多くされるのではないかと云つたが、巴里迄それで好いのだと云ふのであつた。食堂のボオイが各室へ注文を聞きに廻るのが私に丈は何とも云はない。食べたくもなく思ひながら時間に食堂へ出て見ると、席が無くやつと田舍女らしいけばけばしい首飾りをした厭な黒い服の婦人の隣で椅子を與へられた。ボオイの顏附が不愉快である。私は昨日迄の汽車を懷しく思はずには居られなかつた。
晩餐の時は初に私を女優かと問うた英國の老紳士の隣へ坐つた。日本語をよく話す人である。明治六年から三十八年間横濱に居る人だ相である。汽車賃はもう十圓位追加されるだらうと其人が云つた。今夜初めて私は上の寢臺で寢た。日本に居る頃から心配して居たワルシヤワの乘替は十八日の午前十一時頃に無事に濟んだのであるが、ボオイが來てもう二十八圓出さなければ成らないと云はれた時私は胸を轟かした。三圓三十五錢はもうワルシヤワの手前で拂つたのである。莫斯科で朴氏にした禮と馬車代とを使つた後で、佛貨や獨逸の錢を交ぜても二十五圓足らずより持合せがない。間違ではないかと云つて見たが何うしても二十八圓要ると云ふ。不愉快な思ひをして食堂へ出る事はしないでも好いから其れは食べない事にするとしても、何うも巴里迄は行けさうにない。かうなると何處で降ろされるかも知れないと思ふので少しでも遠い距離に伴れて行かれたい心で汽車の走るのが嬉しい。考へ拔いた揚句今夜私は伯林《ベルリン》で降りるとボオイに云つたが不可《いけ》ないと云ふ。何うしても伯林で降りるのだと云つても頑として不可ないと云ふ。荷物の關税の關係などの事でさう云ふのである。私は伯林の松下旅館で一晩泊つて翌日普通の二等車にさへ乘れば樂に巴里へ着かれると思ふのであるが、其れが出來ない事なら何うすれば好いかと、向ふ任せの氣にもなれないで胸を痛めて居た。もうアレキサンドロ※[#濁点付き片仮名ヲ、1−7−85]ウに來て居るのである。ふと目を上げると窓の外のプラツト・フオオムを横濱の英人が運動に歩いて居る。倫敦《ロンドン》行の汽車は別のかと思つて居たのであるが、前と後になつて居る丈で未だ兩方繋がつて居る事に此時初めて氣が附いた。私は其人の傍へ下りて行つて伯林で降りる事をもう一度交渉して見て下さいと頼んだ。紳士は直ぐ來て呉れてボオイにさう云つて呉れたが矢張《やはり》駄目だと云ふ。一日位は好いではないかと云つても好くないと云ふ。私が途方に暮れて居るのを見て紳士は私に、あなたが金の事で心配するのなら何程でも私が出して上ると云つて呉れた。二十圓もあれば好いでせうと云つて私を自身の室へ伴れて行つて二人の令孃に紹介した。私は思ひ掛けない事に遇つて感極まつて涙が零れた。用意に三十圓もお持ちなさいと云つて露貨で出して呉れた。此人の名はマリウス・レツセル氏である。露西亞の役人が旅行券を返しに來たが、令孃が「ヨサノ」と云つて私のも受取つて呉れた。私は今日は晝も夜も何も食べなかつた。獨逸の國境でボオイは私を伴れて行つて十五圓程の増切符を買はせた。マウリス氏は此時も其影を見て又何か事が起つたかと降りて來て呉れた。税關吏は鞄の中は見なかつた。私が心配しながら通つた波蘭《ポオランド》から掛けて獨逸《ドイツ》の
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